ラッキーだった厳幹と李義
しかし、何事にも例外があるように、寒門でも幸運な人々はいました。それが厳幹と李義で、彼らは馬翔郡の東県の出身でしたが、幸いにも東県には名族がいない事が幸いし、馮翊の名士、桓・田・吉・郭の四姓に加え、元侍中の鄭文信らに徳性を認められて名士の仲間入りをしています。
ところが彼らにしても故郷では名族の動向を気にしていて「青二才どもと出世は競わん」と所属替えを願い出て、出世競争のトラブルを回避していました。
ここから見ると、例え名士の仲間入りをしても後から入る分には新参とみなされ、何かとやっかみの対象になって、やりにくかったであろうことが推測されます。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は寒門出身者たちに立ち塞がる地元の圧力と、形見の狭さについて解説しました。
曹操や曹丕は、能力主義を貫いて有能な寒門を保護し厚遇しましたが、魏が大きくなるにつれ、地方の豪族や名士層の協力が必要不可欠になり、寒門が歴代出世し続けるのは、難しかった実情が見えてきます。
こうしてみると、名士の劉巴に交際を断られた張飛のケースなんて、まだ差別としては優しい部類に入るのかも知れませんね。
参考文献:魏略
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