魏呉蜀の三国時代で、次の統一王朝の母体になったのは魏王朝です。そして、魏がそこまで巨大化したのは曹操が屯田制を敷いたからでした。
今回は屯田制がもたらした凄まじい富について解説します。
この記事の目次
魏を肥らせた屯田民の空前の規模とは?ザックリ!
では、最初に忙しい人向けに、この記事の内容を簡単に説明します。
1 | 屯田制は以前から存在し、国境地帯に駐屯する軍隊が 自給自足の為に田畑を耕した |
2 | 曹操は国境ではなく国内で、土地を失った人々に 土地と農具や牛を貸し与え、 これを民屯と呼び50%から60%の税金を徴収した。 |
3 | 貨幣経済が崩壊していたので、民屯の税金は穀物で収めた。 |
4 | 民屯人口は833万人と魏の自作農の人口443万人の倍存在した |
5 | 曹操は民屯には高い税率を課す一方で、 自作農の税率を1%にし富裕層を集めた |
6 | 屯田は典農中郎将が独立性高く支配していて、 利権の温床であり、司馬懿は典農中郎将のポストを独占し、 支持者に配って権力基盤を固めた。 |
7 | 司馬炎は第二の司馬氏を出さない為、 利権の巣である屯田を廃止した。 |
大体、ザックリ言うと、こんな内容になります。では、ここからはもう少し詳しく記事を解説しましょう。
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税率5割から6割の屯田制
屯田制とは簡単に説明すると、戦乱で荒廃し持ち主が不在になった田畑を接収し同じく戦乱で土地を失った避難民を募集して定住させ、必要であれば税率割増しで牛や農具を貸与して農業に従事させるものです。
屯田自体は、元々辺境で軍隊が駐屯する際に自分で土地を耕して収穫して屯田し続けるもので前漢の武帝の時代からありますが、曹操の新しさは辺境ではなく内陸部で住民に農地を与えて耕させた事でした。
民屯の支払う税はかなり高く、50%から60%にも達していました。
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高い税率でも払える理由
しかし、税収の50%から60%なんて支払えたのでしょうか? 実は三国志の時代には、貨幣経済が崩壊しており、年貢は現物徴収でした。農作物から直に徴収されるので支払えない事はなかったのです。
貨幣で年貢を支払う場合には、豊作だと収穫物の値段が下がるので年貢は重くなるのですが、現物支給の場合には相対的に手元に残ります。現物徴収には、そのようなメリットがあります。
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富裕層を集める手段
曹操の屯田制で重税を絞られた屯田民ですが、では、屯田民ではない自作農の税率は幾らだったのでしょうか?
西暦204年に曹操が出した布告では自作農の税率は1%でした。これは漢の時代の税率、10%から3%に比較しても超低率であり、曹操が自作農を優遇している事がハッキリ分かります。
これには、曹操が国内の富裕層を自国内に誘致したいという思惑があったようです。呉、蜀から富裕層が移ってくれば、それだけ魏国内の富が増加して勢力が拡大するという事ですね。
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桁外れだった民屯の数
自作農には超低率1%の税金を課して、富を呼び込もうとした曹操ですが、一体、どの程度の民屯戸数が存在すれば、そんな大盤振る舞いが出来たのでしょう? 三国が鼎立していた時代、中国の人口は魏が443万人、呉が230万人、蜀が94万人で合計767万人でした。
ところが、晋が中国を統一した西暦280年の人口は1600万人となっています。これだと、呉と蜀の人口の324万人を引いた魏の人口は1276万人という計算になり、443万人だった魏の人口は833万も急増しました。いくらなんでも十数年で人口が倍になるのは不可解ですが、実はこの833万人が民屯の人数です。
晋は、西暦266年に屯田制を廃止、それまで戸数に加えていなかった屯田民に土地を与えて自作農にしました。これが、十数年での人口の急増の原因なのです。443万人だった自作農のおよそ倍の民屯戸数があったから、曹操は1%という超低率減税で、国家を運営するのが可能だったんですね。
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