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倍率ドン!さらに倍!魏王朝を肥らせた屯田民の空前の規模とは?

2021年9月7日


 

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曹操に降伏する教祖・張魯

 

魏呉蜀(ぎごしょく)の三国時代で、次の統一王朝の母体になったのは魏王朝です。そして、魏がそこまで巨大化したのは曹操が屯田制(とんでんせい)を敷いたからでした。

 

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

今回は屯田制がもたらした凄まじい富について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏を肥らせた屯田民の空前の規模とは?ザックリ!

忙しい方にざっくり解答01 kawausoさん

 

では、最初に忙しい人向けに、この記事の内容を簡単に説明します。

 

1 屯田制は以前から存在し、国境地帯に駐屯する軍隊が
自給自足の為に田畑を耕した
2 曹操は国境ではなく国内で、土地を失った人々に
土地と農具や牛を貸し与え、
これを民屯と呼び50%から60%の税金を徴収した。
3 貨幣経済が崩壊していたので、民屯の税金は穀物で収めた。
4 民屯人口は833万人と魏の自作農の人口443万人の倍存在した
5 曹操は民屯には高い税率を課す一方で、
自作農の税率を1%にし富裕層を集めた
6 屯田は典農中郎将が独立性高く支配していて、
利権の温床であり、司馬懿は典農中郎将のポストを独占し、
支持者に配って権力基盤を固めた。
7 司馬炎は第二の司馬氏を出さない為、
利権の巣である屯田を廃止した。

 

大体、ザックリ言うと、こんな内容になります。では、ここからはもう少し詳しく記事を解説しましょう。

 

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税率5割から6割の屯田制

屯田民だった若き鄧艾(トウ艾)

 

屯田制とは簡単に説明すると、戦乱で荒廃し持ち主が不在になった田畑を接収し同じく戦乱で土地を失った避難民を募集して定住させ、必要であれば税率割増しで牛や農具を貸与して農業に従事させるものです。

 

農業の知識が豊富な鄧艾(トウ艾)

 

屯田自体は、元々辺境で軍隊が駐屯する際に自分で土地を耕して収穫して屯田し続けるもので前漢の武帝の時代からありますが、曹操の新しさは辺境ではなく内陸部で住民に農地を与えて耕させた事でした。

宋銭 お金と紙幣

 

民屯の支払う税はかなり高く、50%から60%にも達していました。

 

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三国志ライフ

 

 

高い税率でも払える理由

スキッパーキ(はてな)

 

しかし、税収の50%から60%なんて支払えたのでしょうか? 実は三国志の時代には、貨幣経済が崩壊しており、年貢は現物徴収でした。農作物から直に徴収されるので支払えない事はなかったのです。

 

貨幣を量産してハイパーインフレを起こす董卓

 

貨幣で年貢を支払う場合には、豊作だと収穫物の値段が下がるので年貢は重くなるのですが、現物支給の場合には相対的に手元に残ります。現物徴収には、そのようなメリットがあります。

 

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富裕層を集める手段

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

曹操の屯田制で重税を絞られた屯田民ですが、では、屯田民ではない自作農の税率は幾らだったのでしょうか?

 

曹操

 

西暦204年に曹操が出した布告では自作農の税率は1%でした。これは漢の時代の税率、10%から3%に比較しても超低率であり、曹操が自作農を優遇している事がハッキリ分かります。

 

自分の人形を操る曹操

 

これには、曹操が国内の富裕層を自国内に誘致したいという思惑があったようです。呉、蜀から富裕層が移ってくれば、それだけ魏国内の富が増加して勢力が拡大するという事ですね。

 

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曹操孟徳

 

 

桁外れだった民屯の数

餓えた農民(水滸伝)

 

自作農には超低率1%の税金を課して、富を呼び込もうとした曹操ですが、一体、どの程度の民屯戸数が存在すれば、そんな大盤振(おおばんぶ)る舞いが出来たのでしょう? 三国が鼎立していた時代、中国の人口は魏が443万人、呉が230万人、蜀が94万人で合計767万人でした。

 

村人(農民)

 

ところが、晋が中国を統一した西暦280年の人口は1600万人となっています。これだと、呉と蜀の人口の324万人を引いた魏の人口は1276万人という計算になり、443万人だった魏の人口は833万も急増しました。いくらなんでも十数年で人口が倍になるのは不可解ですが、実はこの833万人が民屯の人数です。

 

晋王朝を作った司馬炎

 

晋は、西暦266年に屯田制を廃止、それまで戸数に加えていなかった屯田民に土地を与えて自作農にしました。これが、十数年での人口の急増の原因なのです。443万人だった自作農のおよそ倍の民屯戸数があったから、曹操は1%という超低率減税で、国家を運営するのが可能だったんですね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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