春秋戦国時代はどうして数年もの籠城が可能だったの?恐怖の人肉食で凌いでいた?


 

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日本史 兵糧攻め 村人

 

戦国時代の日本の籠城戦(ろうじょうせん)といえば、食糧と水を断たれた籠城方が悲惨な状態になりがちです。有名な鳥取城の(かつ)え殺しでは、羽柴秀吉の軍勢に包囲されて糧道を断たれた鳥取城は4カ月の包囲の末に降伏しました。

 

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

しかし、同じ籠城戦でも春秋戦国時代の中国には籠城方が数年も持ちこたえた話が登場してきますが、この違いは何なのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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城の規模の違い

名古屋城

第一の違いは、城についての認識の違いです。日本人がイメージする城とは、天守閣があり櫓があり周辺を石垣で囲っている砦としての城ですが、中国における城というのは城市というように都市の事です。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

中国では都市を城壁で囲んでいて、籠城となると都市の内部にいる人間全てが戦闘員になりました。そんなわけなので城内に籠城している人数が数十万という事も珍しくありません。

 

逆に、日本の城は城下町を編制しつつも、城下町の周辺は城壁で覆われず、籠城戦は城を落す事に終始しますので、籠城している人数も1万人を超えるような事はまずありません。

 

堅城小田原城に籠城する北条氏康

 

例外的に戦国末、後北条氏が豊臣秀吉軍に対抗し小田原城の周囲まで総構(そうがまえ)で囲い住民まで城壁の内側に置いて抵抗した中国の籠城戦に類似したケースがありますが一般的ではないので除外します。

 

人口が多く城の面積が広ければ、それだけ大量の食糧を確保でき衛生環境も悪化させないで済むので、籠城できる期間は長期化するでしょう。

 

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食糧庫の大きさ

白起(春秋戦国時代)

 

中国の戦争は都市の争奪戦でした。実際に史記にも、白起(はくき)が数十城を抜いたというように都市を落とした数を功績としてカウントしています。

 

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

同時に都市では、敵襲に備えて食糧倉庫が備えられていて、漢の長安城の武庫(ぶこ)京師庫(きょうしこ)という大きな食糧倉庫が発見されています。また、2020年には内モンゴルのフフホト市、玉泉区の沙梁子村で前漢中期から後期の食糧庫の遺構が発見されました。

 

曹操のお墓(曹操高陵)

 

こちらの食糧庫は、東西約170メートル、南北約21メートルの細長い建築物で建物の壁と柱には防虫、防湿効果の高いマツ材が使用され、版築基礎の下には食糧貯蔵用の穴の列が並んでいます。

 

日本の戦国時代の城は、普段の食糧備蓄は多くなく、合戦が近づくと商人から買い入れたりしていましたが、中国の城市の食糧庫は平時から膨大な食糧が蓄えられ戦争に備えていました。

 

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春秋戦国時代

 

恐怖の人肉食

 

中国の籠城戦が日本の籠城戦よりも長期化した理由の3つ目は人間が最初から食料として組み込まれていた事でした。

 

人肉食というのは、カニバリズムと呼ばれ飢えをしのぐ為に止む無くおこなわれる場合から、恨みを晴らす為に相手を食べてしまう場合、単に人肉を美味と感じて食す場合、人肉を薬として難病治療に使う場合など様々あります。

 

日本においても、前述した鳥取城の渇え殺しなど、飢えが広がった城内の人々の間で戦死者を食べるという凄惨な状態が起きました。

 

しかし、中国の人肉食は桑原隲藏(くわばらじつぞう)の研究によると日本におけるそれよりタブーが低く、家畜を食べ穀物を食べつくした時に当然浮上してくる選択肢であり、そればかりか儒教的な忠義を守る為におこなわれた時には、むしろ賞賛の対象になります。

 

 

正史三国志に登場する臧洪(ぞうこう)は、袁紹に城を包囲されて食糧が欠乏すると(めかけ)を殺して、その肉を(かゆ)にして兵士に振る舞い、唐の時代に安禄山の軍勢に睢陽城(すいようじょう)を包囲された張巡(ちょうじゅん)愛妾(あいしょう)を殺して将兵に分け与え士気を高めていました。

 

それ以外にも張巡と同じく睢陽を守っていた許遠(きょえん)は食糧が尽きると最初に自分の従僕を殺して肉を部下に振る舞い、次に城内の婦人を殺して肉にし、最後には戦闘に耐えられない老弱の男子を殺して食料にしたとあります。

三国志 兵糧攻め 村人

 

また、17世紀、李自成(りじせい)の反乱軍が開封を包囲した時、開封に布教の為に来ていた欧州の宣教師が、同地での人肉流通の様子を手記に残し

 

水滸伝って何? 書類や本

 

”死人の肉は豚肉同樣に公然と市場で販売されている。死人の屍を通りにさらして、他人の食料として売る事は多大なる功徳と認められた。やがて強者の餌食となる運命も知らぬ弱き飢餓人たちは、人肉で命を繋いだ。”

 

このように人肉が豚肉同様に公然と市場で売られている様子を記録しました。

 

日本の籠城ケースでは、飢えに苦しんで敵の攻撃に倒れて死んだ人を無我夢中で食べているのですが、中国の籠城ではもっと淡々としていて、ちゃんと死人を食肉として加工し売買している所に大きな違いがあります。

 

一番最後に城内の人間を食料とできれば、籠城期間は驚異的に延びる事は疑いなく、これも日本と中国の籠城期間に差をつけているでしょう。

 

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春秋戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は春秋戦国時代の籠城期間と日本の戦国時代の籠城期間についての違いを考えました。

 

城の規模や認識の違い、それに食料貯蔵庫の大きさもありますが最終的に人間を食料として捉え、ちゃんと食肉加工して市場に流してしまう中国の方が籠城期間は長くなりそうです。

 

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だから中国人が特別残虐だという事ではなく、食人すらも文化と慣習が違えば、大分扱いが違い、人類が普遍的に嫌悪しタブーにしたとは言えないという意味で書きました。

 

 

ちなみに人肉のカロリーは低く、ビーバーやイノシシの筋肉1kgが4000カロリーあるのに対し、人間の筋肉1㎏は1300カロリーしかないそうです。

 

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ほのぼの日本史

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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