どうなんですか?呉王様!
赤壁の戦いで勝利して人員が増えて、そして合肥で大敗したからこその後の5万とも言えますが、それにしてもやはり合肥の戦いでの10万はやはり多すぎるように思えます。
つまりは数を盛っているのではないか?
実際には半分くらいだったのではないか?
どうなんですか呉王様!?数を水増ししたんですか!?もしかしなくてもまたお酒ですか!?遼来!!
……と、うっかり呉王様に責任追及をしてしまいましたが、この件に関しては孫権は悪くないとだけははっきりしておきましょう。
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魏伝にあり
実際に「孫権は10万の兵を率いた」という記述はありますが、これは魏伝、張遼伝に記載されているものなんですね。古来より、勝った敵の数は大きく記すもの。敵が強大であればあるほど、それに勝った自分たちすごい!となるからです。だからちょっと前後を考えても、この孫権が率いた軍は盛られているのではないかなーと思った次第です。
とは言え、当時孫権が率いてきたことを考えると、7000より少なかったということはないでしょう。また張遼たちが奮戦したことも、間違いのないことです。決して張遼の奮戦が偽りと言いたい訳でなく、この記録にはちょっと物申したい、と思った筆者の戯言とお思い下さいね。
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三国志ライター センのひとりごと
実際に、兵士の数だけでなく戦の勝敗、結果も伝によってまちまちで、細かい所まで見れば齟齬が出てくるのは仕方のないことです。ただそうであっても、見比べてみて出てくる重箱の隅を楊枝でつつかずにはおれないのが三国志マニアの性ということで……今回はまとめさせて頂きました。
とは言え本当に合肥の張遼は凄すぎて、これは三国志演義でも正確には書けないわ……なんて思ってしまう筆者でした、ちゃぽん。
参考文献:魏書張遼伝
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