司馬懿は北伐キラー?蜀と呉の侵攻を食い止め続けた戦略を解説

2021年10月8日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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孔明と司馬懿

 

諸葛亮(しょかつりょう)のライバルという印象が強い司馬懿(しばい)ですが、蜀だけでなく呉の北伐も食い止めている戦上手な人物です。

 

孟達を討伐する司馬懿

 

魏は国内での反乱がたびたび起きていますし、蜀や呉に何度も侵攻されていますが、司馬懿がいたからこそ大きな問題を抱えずに過ごしたとも言えます。今回はそんな北伐キラー司馬懿の戦歴にスポットを当てつつ、どのような戦略を採っていたのかを解説していきたいと思います。

 

 

襄陽で諸葛瑾らを撃退

司馬懿

 

司馬懿が最初に北伐を防いだのは呉の諸葛瑾(しょかつきん)が侵攻してきた時です。時は226年、魏では曹丕(そうひ)が崩御して曹叡(そうえい)が帝位に就いたばかりでした。

 

孫権 弔い出陣

 

孫権(そんけん)自ら江夏を攻め、諸葛瑾と張覇(ちょうは)襄陽(じょうよう)へと侵攻してきましたが、曹叡の命令を受けた司馬懿が諸葛瑾を破り、さらに張覇を討ち取りました。

 

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電光石火で孟達を討つ司馬懿

孟達

 

227年に上庸にいた孟達(もうたつ)は蜀に投降しようと画策します。この時、孟達は呉とも通じていたようで、魏、呉、蜀のいずれに与するか悩んでいたようです。

 

孟達と曹丕

 

それを見た司馬懿は孟達を懐柔する手紙を出しつつも上庸を攻める準備を進めます。この時の司馬懿は宛城(えんじょう)に駐屯していて、宛城から上庸までは半月ほどの距離。さらに孟達の計算では司馬懿が攻めてくるとしても、先に洛陽にいる曹叡に上奏してからになるので到着まで1ヶ月ほどはかかるだろうと予測します。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

しかし、司馬懿は上奏をせずに、さらに昼夜敢行で進軍をしたためにわずか8日で上庸へと到着。備えをしていなかった孟達は焦りますが、時すでに遅くわずか16日にして味方が投降し、上庸は陥落しました。

 

孟達と孔明

 

反逆を企てたことで孟達は斬られますが、諸葛亮は孟達との連携を第一次北伐の戦略の1つとして考えていたため、司馬懿の電光石火の働きによって蜀軍の動きは大きく抑制されることになります。

 

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祁山で諸葛亮と対峙

北伐する孔明

 

231年、諸葛亮が4度目の北伐で祁山(きざん)に進軍した際、司馬懿は上封へと進みこれを迎撃しました。ここからは晋書と三国志とで記載が異なり、晋書では諸葛亮の上封付近の麦を刈り取る作戦を司馬懿が看破し、昼夜敢行で進軍したところ諸葛亮は撤退した。

 

張コウ 張郃

 

三国志では諸葛亮が司馬懿と別働隊である張郃(ちょうこう)が迫っていることを察知したために撤退したとあります。

 

長雨にあたり食料の輸送が間に合わず孔明にバレることを怯える李厳

 

結果的に諸葛亮は鹵城(ろじょう)へと籠り、長期戦の構えを見せますが、李厳(りげん)が食料不足を理由に諸葛亮を撤退させたために結局北伐は失敗に終わりました。いずれにしても司馬懿が諸葛亮を籠城にまで持ち込んだというのが戦の分かれ目となっています。

 

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五丈原で諸葛亮と決戦

北伐を結構する孔明

 

234年に諸葛亮は5度目の北伐を行います。この時は今までの祁山ルートではなく長安にも近い五丈原(ごじょうげん)へと進軍しました。しかし、司馬懿は諸葛亮が積極的に攻めるのであれば五丈原ではなく、武功水に進軍するはずと読み今回も北伐は成功しないだろうと予測。

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

北原と陽遂での前哨戦から始まったこの戦いも決着はつかずに長期化していきます。

 

司馬懿

 

司馬懿は蜀が食料供給に難儀していることを知っているので、挑発に耐えて相手が自滅するのを待ちます。その過程で諸葛亮は陣没し、蜀は結局なんの成果も得られないまま撤退しました。

 

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蜀のマイナー武将列伝

 

樊城へ救援

司馬懿

 

241年に呉が揚州と荊州から北伐を開始すると司馬懿は周囲の反対を押し切って朱然と孫倫(そんりん)が包囲する樊城(はんじょう)へ救援に向かいます。

 

司馬懿

 

ここも晋書と三国志で記述が違い、晋書では朱然(しゅぜん)を破る活躍をみせ、三国志では司馬懿の到着前に皇太子である孫登(そんとう)が死去したために呉軍は撤退しています。

 

三国志のモブ 反乱

 

ただ、戦況は呉軍が優勢であったため、司馬懿が救援に向かわずに樊城が落ちていたとすると、魏の国境線は著しく乱されていたはずです。

 

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呉の武将

自身はちゃっかり北伐を成功させる司馬懿

司馬懿

 

司馬懿は蜀と呉の侵攻を防ぎながらも236年には、自ら遼東の公孫淵(こうそんえん)を滅ぼしています。遼東への侵攻は主に東征と言われますが、北方にあることは事実なのでこれも北伐と言えるでしょう。

 

司馬懿と公孫淵

 

それはさておき、この戦いにおける司馬懿の手腕は見事で、わずか1年で公孫淵を降伏させ平定を果たしています。しかもその大半は往復の行軍や休息期間であり、実際に戦闘を行った期間は3、4ヶ月ほどでしょう。

 

国力の上では魏が断然優勢でしたが、この時は司馬懿の方が兵は少なく、公孫淵の方が数の上では有利に立っていました。

 

司馬懿

 

しかし、司馬懿は遼隧(りょうすい)で待ち構える公孫淵の軍勢を陽動作戦によって撒くと、直接本丸である襄平へと進軍。敵の食料が1ヶ月分しかないと見ると包囲を続けて相手の自滅を待ちます。

 

公孫淵

 

食料が尽きた公孫淵は人質を出して和睦を試みますが、司馬懿はこれを拒否。公孫淵は仕方なく包囲を破って逃走を試みますが、そのまま討たれてしまいました。

 

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司馬懿の戦略

司馬懿

 

蜀と呉の北伐を破った際も孟達や公孫淵を討った際にも共通して言えるのは、司馬懿が敵の急所を常に狙うということ。

 

三国志 兵糧攻め 村人

 

蜀が兵糧に乏しいことを知ると長期化させて早々に諦めさせていますし、逆に孟達が1年分の食料を有していることを知ると長期戦を防ぐために強行軍で準備をする前に打ち破っています。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

常に相手の嫌がる戦い方をするのが司馬懿流の戦法で、昼夜敢行軍などリスクも恐れません。この辺りが堅実な諸葛亮との違いであり、たびたび発生している国内での反乱平定でも活躍している要因でしょう。これは魏が兵戸制を用いて常備兵を有していたからこそ迅速に軍を編成できたという背景もあります。

 

ただ、そうした制度を司馬懿がうまく活用したからこそ、司馬懿は国防において大いに活躍したと言えるでしょう。

 

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帝政ローマvs三国志

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

司馬懿の戦い方は魏の国力というバックグラウンドでの優位性が確立されているからこその方法ですが、仮に司馬懿が蜀か呉にいたとしたら、そのバックグラウンドでも最善の戦略を考えたはずです。

 

司馬懿

 

とにかくムダがなく、チャンスができたら一気呵成に攻め立てる野性味のあるスタイルが司馬懿最大の武器だったのかもしれません。

 

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TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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