三国志に登場する数多くの武将の中でも、特に人気が高い武将の一人が魏の張遼でしょう。張遼は魏の将軍として多くの武功を挙げてきました。
その一方、張遼がどのようにして亡くなったか、ということについてはあまり知られていないのではないでしょうか。そこで今回は『演義』と『正史』のそれぞれにおける張遼の死因について見ていきたいと思います。
張遼の前半生
ご存じの方も多いかもしれませんが、一応張遼という武将の生涯について軽く説明してみたいと思います。張遼は并州雁門に生まれ、同じ并州出身の呂布とともに并州刺史丁原に仕え、丁原が呂布に暗殺されると董卓の配下となります。
董卓が呂布に暗殺されると呂布の部下となりますが、呂布が曹操に敗れて処刑されると、曹操の配下に加わります。
曹操の配下としての張遼は、合肥に駐留して呉との国境を守る任務を果たし続け、建安20年(215年)の合肥の戦いでは孫権の大軍をわずかな兵で撃退し、その後も呉の侵攻を跳ね返し続けました。
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『演義』における張遼の死
『演義』は劉備を善玉の主人公とし、曹操を悪玉の敵役とする物語ですので、どうしても魏の武将たちは脇役扱いされるとともに、劉備を引き立たせるためにその武勇や活躍が控えめなものとなり、いわば「やられ役」になってしまいがちです。
ただし、その中でも張遼は特別な存在であり、劉備の義弟関羽との友情や、合肥の戦いでの呉の猛将太史慈との対決など、魏の将軍にしては見せ場がたくさんある印象です。しかし、やはりそこは魏の将軍ということもあり、『演義』での張遼の最期は非常にあっけないものとなってしまっています。
では、ここで『演義』における張遼の最期について見ていきましょう。
魏の皇帝となった曹丕は224年(黄初5年)、呉と蜀が同盟を結んだことに激怒し、大軍を興して呉を攻めようとします。この遠征に張遼は呉との戦いを長年リードしてきた将軍として加わるのですが、呉の徐盛は長江沿いに偽の城壁を築く「偽城の計」を行い、長江沿いに延々と続く城壁に驚いた曹丕は軍を撤退させます。
これを好機と見た呉軍は追撃を行い、魏軍は赤壁の戦いにも匹敵するほどの大損害を受けて壊滅状態になりました。この時、張遼は曹丕を逃がすために追ってくる呉軍と懸命に戦うのですが、呉の将軍丁奉の放った矢に当たってしまい、この矢傷がもととなって名将張遼もあえなく死んでしまいました。
『演義』の一連の記述は、魏の曹丕を皇位簒奪者であり悪玉だと見なす『演義』の歴史観に基づいており、呉の「偽城の計」を看破できずに大敗を喫した曹丕の戦下手な様を強調するという背景があります。
だからこそ、あれだけの活躍をみせた名将張遼が最後はわずか1本の矢で死んでしまうというあっけない最期を遂げているように書かれているのではないでしょうか。
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『正史』における張遼の死
『正史』における張遼の最期は、『演義』とは大きく異なります。もちろん矢に当たってあえなく死ぬこともありません。では、『正史』での張遼の最期はどのように述べられているのでしょうか。
合肥に駐留し、長年呉の侵攻を退けてきた張遼も次第に病気がちになってしまいます。221年(黄初2年)に張遼は魏の首都洛陽に一時帰還し、皇帝曹丕に謁見します。曹丕は張遼を尊敬しており、自ら宮殿を案内し、張遼の母のために御殿を建ててやるほどでした。
その後、張遼は再び前線に戻りますが、病に倒れてしまいます。これに驚いた曹丕は皇帝の侍医を派遣して張遼の治療に当たらせるという厚遇をしたほか、時には曹丕自身が張遼を見舞うほどでした。
しかし、治療の甲斐なく張遼の病は重くなり、張遼は病をおして呉と戦い続けますが、ついに222年(黄初3年)に前線地帯にあたる江都で張遼は亡くなってしまいました。皇帝曹丕はその死を深く悲しみ、後に張遼の一族を重用したと言われています。
このように、『正史』での張遼の死は『演義』のようなあっけないものではなく、魏を支えた柱石として最後まで戦い抜いた末に病死するというものでした。もちろん、224年(黄初3年)の曹丕の対呉遠征にも参加していません。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。張遼の死因は『演義』と『正史』で全く異なるものでした。
三国志に関する作品の多くは『演義』に準拠していますので、どうしても張遼の最期はあっけないものとして描かれがちです。しかし、『正史』を読めばその最期は、生涯をかけて戦場を駆け回った張遼らしい、男らしいものだということがわかります。
どうしても『演義』は悪玉である魏と魏に関わる人物を低く評価する傾向がありますので、張遼に限らず魏の武将たちが好きだという方は、『正史』を読んでみるとまた違った人物像を見ることができるかもしれませんね。
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