絞殺される司馬顒
既に司馬ギョウに味方する者など誰もいませんでした。ここで司馬越も講和を考え始めます。今講和を結べれば、司馬ギョウに対して圧倒的に優位に立てるからです。
司馬越は「司馬ギョウの罪を許す。その上で司徒に任命する」という条件で洛陽に来るように命じ、これを司馬ギョウは受けいれました。しかし司馬摸は、これを受け入れてはいなかったのです。
司馬模は密かに刺客を送り、司馬ギョウを絞殺させました。ここで八王の乱は、司馬越を一人残して終焉を迎えたのです。
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司馬模のその後……
しかし、既に西晋は異民族らの攻撃を跳ねのける力は有していませんでした。
国は乱れ、司馬摸が鎮守していた漢中も混乱の最中に陥ります。
司馬模は色々と打開策を討とうとするも上手くいかず、弟ではこれは治められないと司馬越は洛陽に招き、役職を交代させようとしましたが、司馬模はこれを断りました。これは家臣からの言があったからこそですが、司馬越が司馬模の考えをどこまで理解していたかはわかりません。
後、漢の攻撃により洛陽は陥落。
司馬模は降伏するも、その罪状を挙げられ処刑されました。司馬模にも司馬模の考えがあったのでしょう。
しかし、司馬越のその後を追っていくと、どうにもこの兄弟は足並みが揃ってないように思われます。
兄の真意を理解できないまま司馬ギョウを暗殺させた頃から、どうにも歯車がずれていた……そんな印象を受ける兄弟ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
司馬模は他の八王の乱のメンバーのように、記録が多い訳ではありません。しかしその足跡を追っていくと、決して流される訳でなく、兄と揉めることもなく、その一件一件を何とかしようとしたことは伝わってきます。それでも尚、どこか兄の司馬越と歯車がかみ合っていない気がするのですよね。
そのズレはどこから始まってしまったのかは分かりませんが……少なくとも、八王の乱という国家を揺るがし疲弊させた事件さえ起こらなければ、もう少しお互いに交流する時間があれば……そうではなかったのかな、と思うと何だか寂しいものがありますね。
ともあれ八王の乱のサブメンバー、司馬模についてでした。チャポーン。
参考文献:晋書列伝第七宗室
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