呉討伐に繋がる
孫休の懸念は西暦280年に的中します。司馬炎は六軍を興して呉に大規模侵攻しますが、この時王濬が龍驤将軍として大船団を仕立てて長江を下り、またたくまに建業に至り孫晧を降伏させたのです。
呉としては羅憲から奪えなかった永安が最終的に呉にトドメをさした事になり、なんともやりきれない感じになった事でしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は永安攻防戦について解説してみました。
羅憲は晋書にも列伝がありますが、蜀や晋の立場から書いたもので孫休を火事場泥棒と断罪しています。しかし、それは一面的であり孫休も永安が魏に奪われた結果、呉が窮地に陥る事を座視できずにやむなく出兵した背景があります。
ましてや、呉の滅亡がまさに永安を通過した王濬の大船団によりもたらされたという事実は孫休の危機感を皮肉にも裏付けていると言えるのではないでしょうか?
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