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蜀滅亡後の戦い永安攻防戦を呉サイドから見てみると意外な事実が判明

2022年1月4日


 

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陸抗 vs 羅憲

 

永安(えいあん)攻防戦は、西暦264年蜀滅亡後に起きた呉の陸抗(りくこう)と蜀の羅憲(らけん)の激突です。

 

降伏する劉禅

 

本来なら蜀は滅亡しているので戦争にはならない筈ですが偶然の要素が幾つも重なり、世にも珍しい蜀滅亡後の戦争が発生しました。一般に呉の火事場泥棒的侵略が非難されますが、今回は呉の立場から永安攻防戦を見てみたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備が没した象徴的な土地

劉備

 

永安は元々、白帝城と呼ばれ夷陵(いりょう)の戦いで敗れた劉備が病没した土地です。長江を遡った途中にあり、荊州に出るには重要な戦略拠点です。

 

蜀と呉は同盟を結んでいたので、西暦257年頃には呉の朱績(しゅせき)より魏を牽制したいので、有力な武将を永安に派遣して欲しいと要請があり閻宇(えんう)が都督として赴任しています。これは魏が荊州に攻め込んできた場合、蜀軍が長江を下って呉と共同で魏に対抗する構えを見せるという事でした。

 

戦略上の重要拠点だった永安ですが、蜀が魏に滅ぼされた事で状況が一変します。

 

関連記事:【永安の戦い】永安攻防戦のナゾ、なぜ呉は2千の羅憲軍を破れなかったのか考察

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トウ艾

 

 

 

孫休はただの火事場泥棒ではない

 

西暦263年、蜀が魏の鄧艾(とうがい)により滅ぼされると呉の孫休(そんきゅう)は援軍を送ると見せかけて盛憲(せいけん)という将軍を永安攻略に送り込んできます。

 

蜀が滅び、ちゃっかり蜀の領土を奪おうとする孫休

 

この時、永安で留守を守っていたのが羅憲で呉の変節に怒り徹底抗戦を決意したのですが、これは羅憲の一面的な見方であり孫休にも言い分がありました。

 

師簒と鄧忠の弱気な発言にブチギレ二人を斬ろうとする鄧艾

 

蜀が滅亡した場合、呉は北方と西方の両方から魏の挟撃を受ける事になり、不利な二正面作戦を余儀なくされるのです。実際に鄧艾も蜀を滅ぼした後に造船に励んでいる事から、挟撃の可能性は十分あったと考えられるでしょう。

 

永安城に陸抗を派遣させる孫休

 

永安さえ奪取できれば魏軍が大船団で長江を下る最悪の事態を牽制できるので、孫休としても、火事場泥棒と(そし)られてもやらねばならぬ決断でした。

 

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呉の武将

 

 

陸抗が出撃した理由

無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

永安を奪取したい孫休にとっては好都合にも成都で鄧艾と鍾会が死に、一時的に成都から魏の影響力が焼失する事件が起きます。ここで孫休は陸遜の子で名将の陸抗に3万の大軍を与え派遣しますが、陸抗は北の魏への備えと西の永安地域を管轄する鎮軍将軍でした。

 

陸抗

 

陸抗の管轄に永安が入っているのは、なかなかに意味深で蜀が健在の頃から隙あらば永安を奪い取りたい意図があったのでしょう。

 

黄皓と対立し左遷された羅憲

 

長年の同盟関係であった蜀と呉ですが、共通の大敵魏あればこその同盟であり、そこを離れた所ではなんとか領土を拡張しようと暗闘していた様子が窺えます。

 

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胡烈の救援で作戦は失敗

たった2000人で永安城を死守した羅憲

 

3万の陸抗に対して羅憲は僅か2千であり籠城を余儀なくされました。ここで羅憲は呉の侵略を免れる為に自分の子と劉禅から受けた印綬(いんじゅ)を参軍の楊宗(ようそう)に託して呉軍の包囲を突破させ魏の安東将軍陳騫(ちんけん)への使者として派遣し救援を請います。

 

羅憲の異常な忠誠心を評価した司馬昭

 

面白いのは、すでに劉禅が降伏しているにもかかわらず羅憲が改めて印綬と人質を差し出して降伏の意を示している点で、この段階で司馬昭(しばしょう)は羅憲が蜀の滅亡に殉じて滅ぶか?あるいは呉に降伏して呉臣となるか意図を計りかねていたのかも知れません。

 

蜀滅亡後 呉が攻めてきた事を根に持ち魏に帰順する羅憲(司馬昭)

 

しかし、羅憲が機転を利かせて人質と印綬を送った事で魏は救援の大義名分が立ち、胡烈を派遣する事で呉の包囲を解く事に成功するのです。

 

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三国志ライフ

 

 

やぶへびになった孫休

呉を討つ策を何度も進言し晋の呉攻略に貢献した晩年の羅憲

 

魏軍の援軍を得て戦いに勝利した羅憲ですが、その後、武陵郡(ぶりょうぐん)の4県が呉に叛きます。羅憲は引き続き巴東監軍(はとうかんぐん)と勤めると同時に武陵太守を兼任。晋が建国されると引き続き仕えて、今度は呉を攻略する計画を立てるなど呉にとって脅威になっていくのです。

 

呉を立て直す孫休

 

今となってみれば、孫休も初動で奇襲をかける卑怯な事はせず羅憲に呉に投降するように呼び掛ける手もあったかも知れませんが、しかし羅憲は、降伏した劉禅の為に3日間喪に服すような人であり、呉に寝返るように説得しても結局はやぶへびだったのかも知れません。

 

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鍾会の乱

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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