孫乾は字を公祐と言い、青州北海の人です。劉備が徐州牧になると辟召されて従事となり後に外交交渉に活躍しました。
古くから劉備に仕えた孫乾ですが、あまり知名度はありません。そこで今回は縁の下の力持ち孫乾について解説します。
劉備を群雄に高く売り込んだ孫乾
劉備が徐州牧になった時に、部下になった孫乾ですが彼の才能は劉備を他の群雄に高く売り込む事でした。例えば劉備は呂布に徐州を奪われた後に曹操を頼りますが、曹操暗殺計画に加担した事で曹操に叛く決意をし徐州刺史の車冑を殺して下邳に入ります。その時、劉備は孫乾を袁紹の下に向かわせて同盟を結び、共に曹操を攻撃する盟約を結びます。
さらに劉備は官渡の戦いで袁紹が敗れると、再び孫乾を荊州の劉表の下に麋竺と共に遣わし劉備を荊州の新野に迎える事に成功しています。これだけ書くと何でもないように見えますが考えてみて下さい。劉備は大金持ちでもなければ大学者でもありません。曹操の伝手で左将軍の官位は受けていましたが、それも献帝を握る曹操に敵対してしまえば使いようがありません。
反曹操を決断した時点で他の群雄にとって劉備は、曹操に何度も敗北した一傭兵隊長に過ぎないのです。こんなセールスポイントのない劉備を孫乾は袁紹や劉表の下っ端扱いではなく客将として受け入れさせ劉表の時には新野城を任される好待遇を得ています。
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実は鄭玄の弟子だった孫乾
実は孫乾ただものではありませんでした。孫乾は大儒学者鄭玄の弟子であり、徐州へ推挙されたのも師匠の鄭玄が孫乾を推してくれたからです。
鄭玄は孫乾と同じ青州北海郡の出身であり、若い頃に盧植の紹介で当時一流の儒学者だった馬融の塾で留学。馬融の弟子は400名もいて、また馬融も驕り高ぶった性格で無名の鄭玄は馬融に直接に教えを受ける事も出来ません。
しかし、鄭玄は腐らず学問を積んで馬融と面会が叶った時には馬融の質問によく答え感心されたそうです。鄭玄は40歳頃に故郷に帰りますが、馬融はそれを非常に惜しんだと言われています。
郷里に帰った鄭玄は弟子を取って塾を開きますが、家が貧しく塾を維持する為に、東萊で耕作していましたが、鄭玄が畑に向かうと数百から数千の弟子が同行。学生と協同生活し研究と農作業をしていました。
しかし鄭玄の壮年期は党錮の禁で儒学者は弾圧された時代でした。ようやく党錮が解けた時、鄭玄は六十歳を過ぎており、何進も袁隗も董卓も召集しようとしますが誘いを断り、在野で郗慮、王基、崔琰のような弟子を育てます。
また若い頃の劉備も鄭玄の教えを受けていて面識がありました。鄭玄も恐らく教え子の劉備が徐州牧になった事を喜び、孫乾を部下にやったと考えられます。孫乾は鄭玄が自信を持って推挙した弟子であり有能は当たり前でした。
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劉表にも一目置かれた孫乾
孫乾は劉備のみならず劉表にも高く評価されていました。
劉表は袁紹の死後に袁譚と袁尚が骨肉の争いをしているのを哀れみ袁尚に書を送り「私は毎日、劉左将軍や孫公祐と共に、この事を心配し骨身に染みるように心が痛み、嘆かない時はない」というような事を書いています。
ここで分かるのは、劉表は劉備のみならず傍らに孫乾をおいて劉表と会見していたという事であり、諸葛亮が来る前は軍師ポジションに孫乾がいたとも言えるでしょう。
益州攻略後、労苦に報いた劉備
孫乾はその後も劉備に仕え、西暦214年に劉備が益州を平定すると孫乾は従事中郎から秉忠将軍に昇進します。劉備の孫乾に対する厚遇はスポンサーの麋竺に次ぎ、一番古い仲間である簡雍と同等でした。それからしばらくして孫乾は亡くなったという事です。
もう少し寿命があれば劉備が漢中王に即位し、さらに皇帝に即位する様子を見る事が出来たでしょうし、官位も上がり丞相にもなれたかも知れません。しかし、それも孫乾らしいと言えば孫乾らしいですね。
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孫乾なくして皇帝劉備は無かった
もし、孫乾がいなければ、劉備が没落するたびに群雄を渡り歩き、赤壁まで生き残っていたかは怪しいと言えるでしょう。具体的に孫乾が劉備をどう売り込んだのかは不明ですが、並大抵の事では曹操を敵に回すリスクを群雄が受け入れたとは思えません。そこを突破できた孫乾は、関羽や張飛、諸葛亮に匹敵する良い仕事をした名将と呼べます。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は劉備に仕えた孫乾について解説してみました。孫乾は武将タイプではなく孔明のように策略が使えるわけでもありません。しかし、劉備が転がり込む寝床と食い扶持を用意する才能においては、孫乾の右に出るものはいなかったのです。
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