楽間とはどんな人?名将楽毅の息子は悼襄王のせいで廉頗と喧嘩し国外逃亡


 

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楽毅

 

楽間(がくかん)は燕に仕えた名将楽毅(がっき)の子です。

 

(せい)田単(でんたん)の計略により(えん)(けいおう)に疑われ誅殺(ちゅうさつ)を恐れて趙に亡命した楽毅に代わり昌国君として楽毅の爵位を継ぎ重用(ちょうよう)されました。偉大な父ほどではありませんが、楽間もまた名将でした。が趙の悼襄王(とうじょうおう)のチョンボで廉頗(れんぱ)と仲違いして趙から亡命を余儀なくされます。

 

今回はキングダムのレジェンド楽毅の子、楽間の生涯について解説しましょう。

 

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父、楽毅が恵王に疑われ趙に亡命

逃亡する兵士 三国志ver

 

楽間の父である楽毅は若い頃に(ちょう)武霊王(ぶれいおう)に仕えます。しかし、趙で後継者争いが起こり武霊王が息子の恵文王(けいぶんおう)の軍勢により包囲され餓死する事件が起きると魏に亡命しました。

 

そこで魏の昭王の家臣になりますが、燕の昭王が人材を求めていると聞いて燕の使者となりそのまま燕に仕官します。燕は少し前に斉国により一度滅亡し、斉の支配下で細々と命脈を繋ぐ状態です。

 

モブ朝まで三国志

 

昭王は表面上、斉に服従している顔をしながら次々と人材を集めて斉に復讐する機会を待ちます。その頃、斉で即位したのが湣王(びんおう)で、斉の国力を過信して小国に傲慢(ごうまん)な態度を見せる嫌な人物でした。

 

三国志 剣閣のお城

 

そこで昭王は楽毅に命じて紀元前284年、韓・・趙・()の合従軍を組織させて斉に攻め込み瞬く間に七十余りの城を落とします。残るのは斉の襄王(じょうおう)が立て籠もる(きょ)と田単が立て籠もる即墨(そくぼく)の2城となりました。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

しかし紀元前279年に楽毅を信任した燕の昭王が亡くなり、楽毅とは不仲の恵王が即位。それを知った即墨の田単は楽毅が即墨を陥落させないのは斉人の人心を掌握して斉王になりたいからだとデマを流します。

 

楽毅と仲が悪い恵王はデマを信じ楽毅を呼び戻そうとし、危険を感じた楽毅は軍勢を置いて趙に亡命しました。この頃、息子の楽間は燕にいたようで、父の亡命で立場が危うくなりました。

 

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騎劫の大敗で楽毅の名誉が回復

蜀滅亡後も呉の来襲に旧蜀軍を奮起させる羅憲

 

楽毅が亡命したと知った燕の恵王は騎劫(ききょう)という将軍を燕の総大将として即墨を攻めさせます。ところが騎劫は楽毅に全く及ばない将軍で、田単の計略に何度もハマって即墨の住民の敵愾心(てきがいしん)を煽った上、田単の偽の降伏に騙され油断して陣形を解いている間に、田単に奇襲をかけられ、どさくさの中で戦死したのです。

 

田単は燕の総大将騎劫を討ったチャンスを利用して、燕に支配された七十余りの城を一気に解放し莒の襄王を正式に王位に就けて斉を復活させました。

「斉」の旗を持った兵士

 

デマに踊らされたと知った燕の恵王は楽毅に手紙を書いて戻って来るように要請。その証として楽毅の子楽間を昌国君に封じます。楽毅も「燕の恵王に報ずるの書」を書いて恵王に提出し、誤解が解けた楽毅は、趙と燕を往来し最期は趙で死去します。

 

このような事から燕と趙では定期的な交流が生まれ楽間も、趙と燕を往来したようで、趙の情勢に詳しくなりました。

 

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—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

粟腹の趙攻めに反対する

宮廷(女帝)女性

 

ところが、趙が秦に長平の戦いで敗れて40万人もの兵力を失うと燕の態度が変化します。趙王の誕生祝いで邯鄲(かんたん)を訪れた宰相の粟腹(りっぷく)が、邯鄲には女子供や老人ばかりで成人男子は少なく、今攻めれば勝てると燕王喜を焚きつけたのです。

 

燕王喜(えんおう・き)は、趙の内情に詳しい楽間にも意見を求めますが、楽間は「趙は四方が敵なので兵士も人民も戦争に慣れていて手強いですよ」と反対しました。

 

青州兵(兵士)

 

しかし、欲に駆られた燕王喜は楽間の助言を軽んじて自ら親征の軍を興して粟腹を総大将として邯鄲に向かいます。楽間も出陣を命じられますが途中で趙の名将廉頗に遭遇して散々に撃ち破られ、言い出しっぺの粟腹は討死します。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

この時、廉頗の軍勢に楽毅の一族でもある楽乗も従軍していたので楽間は楽乗を頼って趙に降伏、趙の孝成王は楽間を武襄君に封じました。そのまま楽間は廉頗の遠征軍に参加し燕の王都である(けい)を包囲。孤立無援になった燕王喜は貢物を差し出して廉頗と和睦、廉頗は引き上げます。

 

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悼襄王のせいで廉頗に撃破され亡命

読み書きのできない司馬倫

 

趙の重臣になった楽間ですが、孝成王が死去して悼襄王(とうじょうおう)が即位すると雲行きが怪しくなります。悼襄王は太子の時代から廉頗と仲が悪いので魏を攻めている廉頗を更迭(こうてつ)して、その司令官として楽間を任命したのです。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

これに対して廉頗は激怒し、引き継ぎにやってきた楽間の軍勢を撃破し敗れた楽間はどこかに逃げていきました。勝利した廉頗も腹いせでやっただけであり、趙軍の報復を恐れて、軍を放棄して、今自分が攻めていた魏に亡命しました。

 

kawauso

 

その後の楽間の動向は不明で、少なくとも趙に帰還したのではなさそうです。また同族の楽乗(がくじょう)も悼襄王の命令で廉頗と交代を命じられて怒った廉頗に撃破されて逃亡して行方不明とあり、もしかすると楽間と楽乗は同じ軍勢の中にいて廉頗に撃破されたのかも知れません。

 

いずれにせよ悼襄王は下手な人事で楽毅の子孫2名と名将連廉頗を失う離れ業をやってのけた事になります。

 

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ながら三国志

 

キングダム(春秋戦国時代)ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

父のような戦勝の記録に乏しい楽間ですが、正確に趙の国力を把握するなど人材不足の燕にあっては貴重な人材であったようです。しかし、主君には恵まれず燕王喜、さらに趙の悼襄王の下手な人事のせいで廉頗に破られ歴史の闇に消えていきました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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