千古の冤罪
岳飛が謀反を企んだとして捕えられ、投獄されたと聞いて動いたのは嘗て共に戦った韓世忠です。彼は秦檜に「岳飛が謀反を起こそうとした証拠はあるのか」と問い詰めました。それに対して、秦檜は歴史的にも驚きの一言を返したのです。
「莫須有」これは「あったかもしれない」という意味です。これに対して「あったかもしれない、という言葉では天下を納得させることはできないぞ!」と怒る韓世忠でしたが、岳飛は結局処刑され、反逆者として暫く名を残すようになります。
秦檜の死後、この一件は冤罪であったことが証明され、名誉回復はなりました。そして岳飛は再び英雄として語り継がれることになったのです。
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一方で
秦檜は金と和睦したものの、その和睦条件は毎年大量のお金を納める、土地の割譲と、講和というよりは金に下るようなものでした。また岳飛への冤罪だけでなく、講和に反対した者たち、それが民衆であっても投獄し、専横を行った秦檜は「売国奴」とされ、佞臣として名を残すことになってしまっています。
彼への民衆の恨みは強く、死後は岳飛の像の前に土下座をさせられる姿で妻と共に並べられるという屈辱を受ける形になりました。そしてちょっと面白いのが中国のお粥や豆乳に乗っている揚げパン。これは油条と言うのですが、この起源が秦檜とその妻をパン生地に見立てたものだというのです。
ある日、腹が据えかねた食事処の店主が、パン生地を秦檜夫婦に見立てて棒で殴りつけ、見せしめに油で揚げてしまったとか……真実はどうか知りませんが、民衆の秦檜への根深い憎悪が分かる一説だと思います。
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三国志ライター センのひとりごと
さて秦檜自身、講和条件や岳飛への対応は置いておいて、後に20年ほど宋の国の寿命を延ばした所は評価されるべきでしょう。もちろんその中で岳飛を冤罪で処理したのは色々な意味で褒めるべき所は全くありませんが……
個人的にはこの岳飛処刑の裏には高宗が存在していたと思いますので、秦檜はその罪まで被った所があると思います。秦檜だけでなく、佞臣の陰にはどうしても皇帝の姿がある……それが分かる一幕、考えさせられる一幕ですね。
ちゃぷり。
参考文献:宋史 秦檜伝
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