
魏(220年~265年)の初代皇帝である曹丕は、弟の曹植と後継ぎを巡って争いました。
結果は兄の曹丕が勝利して弟の曹植は各地を転々とする生涯を閉じました。近年、このような兄弟争いは無かったする研究もありますが、相続による兄弟・一族の争いはいつの時代もあります。
北宋(960年~1127年)の第2代皇帝太宗は兄の太祖を殺害して帝位に就き、太祖の子供たちや自分の弟をいじめて、死に至らしめたと言われています。今回は太宗の帝位継承話について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。また記事の都合上、本名ではなく太祖・太宗と表記します。
この記事の目次
軍人の子として生まれる
太宗は本名を趙匡義。後晋(936年~946年)の天福4年(939年)に生まれました。父は趙弘殷、母は杜氏。兄弟は長男の趙光済と次男の趙匡胤、四男の趙延美、五男の趙光賛がいます。趙匡義は三男でした。長男の趙光済は早く亡くなったので記録が残っていません。そして趙匡胤こそ北宋初代皇帝太祖です。
父の趙弘殷は軍人でしたが決まった王朝には仕えていません。趙弘殷が仕えたのは後唐(923年~936年)・後晋・後漢(947年~950年)・後周(950年~960年)の4つでした。一見すると忠誠心の欠片もない変節漢にしか見えませんが、これには訳があります。
実は趙弘殷が生きていた時代は乱世であり、わずか50年で北では5つの王朝が興亡しており、南では10の国が覇権をめぐって争っていました。これを五代十国時代(907年~960年)と言います。しかも途中で契丹族の侵入まであっているので、かなり恐ろしいです・・・・・・
勉強嫌いの太祖とガリ勉太宗
太宗は兄の太祖と性格が正反対でした。兄の太祖は幼い時からガキ大将で勉強嫌い。一方、弟の太宗は読書が好きで勉強大好き。まさに絵に描いたような兄弟でした。
それでも父の趙弘殷は太祖を塾に通わせていました。もちろん、太祖は勉強が嫌いなので全くする気がしません。師匠の辛文甫の手を焼かせました。しかし太祖は皇帝になると辛文甫に莫大な恩を返します。太祖は迷惑をかけた分をしっかりと返したのでした。
名君 世宗
太祖・太宗兄弟は後に後周に仕えました。後周は五代十国時代の中でも極めて安定した国でした。特に国周の第2代皇帝世宗は名君で有名であり次々と各国を制圧。さらに政策でも民衆から人気がありました。
だが天下統一を目前に病に倒れてしまい、39歳の若さでこの世を去りました。かつて日本の学会で世宗は織田信長と比較される人物として有名でした。また、その後に統一事業を継承した太祖は豊臣秀吉、統一を成し遂げた太宗は徳川家康に比較されました。
太祖 皇帝になる
話が脱線したので戻します。世宗には世継ぎがいますが、6歳であり政治が出来る年齢ではありません。困ったのは太宗や他の部下でした。幼い皇帝には大人を引っ張る力は無いから、誰か別の人に皇帝になってもらうことにします。そこで白羽の矢が立ったのが太宗の兄の太祖でした。ある日、異民族の契丹が侵入してきたという情報が入りました。もちろんこれは太宗たちが流したニセ情報。
出陣した太祖は陳橋駅で野営しました。ところが、寝ているところにいきなり太宗や部下が大勢で押しかけてきました。
「兄上、皇帝になってください」と言った太宗は太祖に黄色のマントを着せました。
黄色は皇帝が着用するものです。脅迫されて皇帝になった太祖は「意味分かんない!」という感じで首都の開封まで逆戻り。こうして北宋が建国されました。
太祖の急死と不思議な書物『湘山野録』
建隆元年(960年)に即位した太祖は16年後の開宝9年(976年)に、この世を去りました。まさにそれは唐突な死でした。太祖の死に関して奇怪な話が伝えられています。最初に伝えたのは文瑩という僧侶が執筆した『湘山野録』という書物。
文瑩はただの僧侶ではなく北宋中期の政界に顔が利いた人物でした。日本史で例えるなら今川家に仕えた雪斎のような人物です。『湘山野録』には以下のような内容が記されていました。
開宝9年(976年)に太祖が馬車で洛陽まで行く途中、ある人物に出会いました。彼は太祖の若い時の飲み友達で混沌と言いました。もちろんこの名前は世を欺くための仮の名前です。久しぶりに会ったので太祖は宮中に招いて飲むことにします。
しばらくすると太祖は「私の寿命はあとどれくらいだ?」と尋ねました。混沌は「10月20日が晴れていれば、12年延びるでしょう。しかし、晴れていなかった時は覚悟してください」
運命の日と太宗の不審な行動
混沌の予言を覚えておいた太祖は20日の夜を迎えます。その夜は・・・・・・雪でした。太祖は弟の太宗を呼ぶと一緒に酒を飲みます。なお、この光景を目撃した部下たちの話によると、弟の太宗は時々何かを断っている仕草をしていたという。
そして時間が流れて真夜中になると、突然太祖は雪が積もった地面に斧を突き刺した。目撃者によると太宗はいきなり、「頑張れ、頑張れ!」と意味不明なセリフを発したようです。しばらくすると太祖は就寝してしまい間もなく息を引き取り、それから太宗が即位します。実に意味不明な話であり、話の整合性がとれていません。太祖も太宗も何がしたかったのでしょうか?
もう1つの太宗即位秘話
別の話も伝えられています。司馬光が執筆した『涑水記文』という書物。司馬光は歴史書『資治通鑑』の著者でも知られています。この書物によると、10月20日に太祖が死亡すると太祖の妻である宋皇后はすぐに子の趙徳芳を呼ぶために宦官の王継恩という人物を派遣しました。
はっきりした証拠はありませんが、宋皇后は趙徳芳を即位させるつもりだったと推測されています。ちなみに彼女と趙徳芳に親子関係はありませんし、趙徳芳の母も分かりません。おそらく身分の低い人物だったのでしょう。さて、宋皇后の命令を受けて趙徳芳のもとに向かっていた王継恩でしたが、途中で心変わり。なぜなら、趙徳芳は18歳。
父親の太祖のように戦場での苦労を知らない、温室育ちの若僧です。まだ中国統一は完成していないのに、そんな奴に政治は任せれません。そこで王継恩は太宗の屋敷に向かいました。
太宗の即位と陰湿なイジメ
王継恩から話を聞いた太宗は宮中に行きました。てっきり趙徳芳が来ると思っていた宋皇后は、太宗が現れたのでビックリ!それに対して太宗は「皆さんの命は私が保証します」と答えました。安心した宋皇后は太宗に後を託します。太宗が後を継いで北宋第2代皇帝になりました。
あとは邪魔な人々の始末です。1人目は太祖の息子である趙徳昭です。太平興国4年(979年)に太宗は異民族である契丹を攻めて大苦戦。それどころか太宗は軍中で行方不明という事態になります。部下は緊急事態なので趙徳昭に新しい皇帝になってもらうことにしますが、太宗は無事に帰ってきたのでした。
後になって皇帝擁立の件を聞いた太宗は、「俺に黙って何してるの?」と趙徳昭の精神が病むまで攻めます。鬱になった趙徳昭はのどにナイフを突き刺して自殺しました。享年29歳。太祖が死んだ時に皇帝候補に挙がった趙徳芳は太平興国6年(981年)に病死。享年23歳。趙徳昭の死と同時期なので、太宗による暗殺が噂されています。
最後は趙延美。太宗の実弟です。弟なので皇位継承権はあります。当然、太宗にとっては目の上のタンコブ!彼は太平興国7年(982年)に謀反の罪で流刑にされて2年後に亡くなりました。こうして太宗を脅かす人物はいなくなり、後は太宗の家系が北宋を切り盛りしていくのでした。
宋代史ライター 晃の独り言
このように不可解な逸話をいくつも残したことから、後世の歴史家は太宗が太祖を暗殺して弟や甥を始末したと言っています。だが、さすがに医学が発達した現代では太祖の死因に関しては冷静な見方もあります。太祖は従来、大酒飲みだったらしいようです。私は太祖の突然死は急性アルコール中毒ではないかと考えています。
亡くなる前に太祖がとっていた不可解な行動やいきなり亡くなるのも、それで説明がつきます。読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・荒木敏一「宋太祖酒癖考」(『史林』38-5 1955年)
・竺沙雅章『宋の太祖と太宗 変革期の帝王たち』(清水書院 1975年)
・宮崎市定「宋の太祖被弑説について」(初出1945年 のち『宮崎市定全集10 宋』岩波書店 1992年 所収)
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