なぜ秦は、戦国七雄の頂点に立つことができたのか?

2022年9月18日


 

はじめての三国志_ページネーション

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戦国七雄の頂点

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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始皇帝は何歳で死んだの?

病に倒れる始皇帝

 

始皇帝は紀元前259年から紀元前210年まで49年生きていました。秦王としては13才で即位し36年も在位しましたが、父である荘襄(そうじょうおう)が若くして死んだ事もあり、常に寿命に対して不安を持っていて、それが不老不死への強い関心に繋がったようです。

 

不老不死を求める始皇帝

 

49歳の死は、特別若死にではありませんが、始皇帝は真面目な性格で激務をこなし、また不老不死の薬として猛毒の水銀を飲むなどしていたので、晩年には極度に健康状態が悪化して、寿命を縮めたのではないかとも考えられています。

 

始皇帝の水銀一気飲みの理由

不老不死を求める始皇帝
始皇帝が求めた不老不死の妙薬…なぜ始皇帝は水銀に行き着いたのか?

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楚漢戦争

 

 

秦の始皇帝の王妃は誰?

楊貴妃

 

始皇帝の王妃については全く分かっていません。

 

13歳で即位した始皇帝には、男女合わせて二十名以上の子供がいて王妃ばかりか側室も大勢いたと考えられますが、王妃の名前も側室の名前も不明です。男子で名前が知られているのは長男の扶蘇と末っ子の胡亥だけで、娘たちの名前は一切不明です。

 

宦官の趙高(キングダム)

 

どうして、王妃や子供たちの名前が残っていないのかというと、始皇帝の死後に2世皇帝になった胡亥の側近、宦官の趙高が胡亥の邪魔になりそうな王子と王女、それに妃を皆殺しにして始皇帝の子孫が絶えてしまった事。

 

また、秦を滅ぼして咸陽を焼き払った項羽によって膨大な量の行政文書が灰になったからではないかとも考えられます。

 

戦国策

 

 

秦ってどこの国?

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

秦は現在の中国、甘粛省張家川回族自治県(かんしゅくしょうちょうかせんかいぞくじちけん)に最初の拠点が置かれました。ここは西安よりもずっと西のシルクロード寄りの草原地帯で当初秦は農業国ではなく牧畜と農業の国で生計を立てる半農半畜の国家だったようです。

 

その後、紀元前770年、犬戎族に都の鎬京を落されて洛陽に逃げた周王室を秦の襄公が護衛、その手柄で岐山以西の領地を得て伯爵となりますが、その地はまだ草原でした。

 

ここでは洛陽に移動した周王室からも遠く不便なので、紀元前762年に汧水と渭水の交わるポイントに都を移し、その後も東に移動を繰り返し、紀元前350年に涇陽(陝西省涇陽県(ちんせいしょうけいようけん))に遷都し、ここが王都咸陽として発展していく事になります。

 

六大将軍は史実でも登場?

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春秋左氏伝

 

 

中国史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

秦がなぜ戦国七雄の頂点に立てたかといえば、強力で過酷な法律を制定して国王に権力を集中し、法を守る者には褒美を与え、破る者は誰であれ処罰したからです。

 

しかし、同時に秦が滅亡したのも、厳しすぎる法を遠慮なく支配した六国で適用して、大勢を処罰し、不満が高まってきた所で、万里の長城や驪山陵の建設など重労働を人民に科してしまったからです。

 

ようやく五百年の戦乱が終わり、安定した平和な暮らしが出来ると期待した六国の人々は理不尽な秦の法律で罪人とされ、土木工事に駆り出され秦への不満を爆発させたのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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