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暴風雨で船もろとも沈没し殉職
しかし後の濡須口で、董襲は命を落とします。
この際に孫権によって五隻の船を任されていた董襲でしたが、夜中に暴風が吹き荒れました。船が横転したために周囲の者は董襲に逃げるように申し上げたけれど、董襲は
「任務を受けているから私はここにいる!撤退するという者は斬るぞ!」
しかし船はそのまま転覆し、董襲は任を離れることはないまま殉職。孫権葬儀に参列して、遺族らを手厚く保護したと言います。決して引かない、責任感溢れる董襲でしたが、そのために亡くなってしまったと言えるでしょう。
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信任されていた董襲だけど
さて董襲ですが、孫策の代から仕えた人物です。そして哀しいかな、孫策の時代はそれほど長くはありませんでした。しかし記述を見るに、孫策の死後に張昭らと共に董襲は呼び出されて、呉夫人から相談を受けています。またこれに立派に答えたことを見ると、この時点でかなりの信認があったということでしょう。
短い間に出世した所を見ると、名士だったのか、それともかなりの名将だったのか……と、ここでちょっと違和感が出ます。
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太守になったとか、そういう記録がない董襲
呉夫人に相談されるほど既に信頼されていた董襲。また後の黄祖との戦いでは、孫権自身から褒められ、感謝されるほどの活躍をしています。しかしこのような逸話の後にお決まりの「後に○○に就任した」という記述が董襲にはありません。また子孫についての記述もなく、不明部分が大きいのです。
程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝にまとめられているのを見れば分かるように、例えば甘寧ならば太守に就任しています。なのに董襲だけ、不思議とどんな役職に就いたかさえあまり定かではありません。皆様もぜひとも董襲について、この謎について何か分かりましたら、ご一報下さいませ。(※ホラーではない)
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三国志ライター センのひとりごと
もしかしたら今後、董襲について何らかの記録が出てこないとも言えないので、今回はここまでにしておきましょう。
しかし董襲伝は何度見ていても、何か欠けているような気がしてくるのです。それが意図的なのか、それとも何らかの理由で抜け落ちてしまったのか、それは分かりません。
ともあれ謎の多い武将、董襲でした。
ちゃぽん。
参考文献:呉書程黄韓蒋周陳董甘寧徐潘丁伝から 董襲伝
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