景初3年(239年)に魏(220年~265年)の第2代皇帝の曹叡が亡くなりました。後を継いだのは曹芳です。曹芳は幼かったことから、司馬懿と曹爽が後見役となります。
曹爽は司馬懿の同僚だった曹真の息子です。今回は司馬懿と曹爽の権力抗争「正始の政変」について解説します。
曹爽の部下
曹爽は早速、権力の中枢を自分の部下で固めることにしました。
司馬懿は「名士」・・・・・・いわゆる勢力のある知識人階級を政治的基盤に置いていたので、その現状を打破しようとしたのです。
曹爽は以下の人を集めました。
何晏・・・・・・曹操の養子。母は何進の娘。
夏侯玄・・・・・・夏侯尚の息子。
丁謐・・・・・・曹操の最初の妻丁氏の一族。
上記の通り、曹爽は権力の中枢を自分の親族で固めたのです。曹爽は彼らを政治の中心である「尚書省」に就けたのです。曹爽が目指したのは法律重視の政治でした。
司馬懿の失脚にもなる太傅の位
曹爽は司馬懿に太傅という位を与えました。太傅は今までの功績に対して授与されるものです。ただし、政治的権限は全くありません。これをもらうのは政界引退する時です。司馬懿は露骨に肩たたきをくらったのです。
人事権をめぐる対立
曹爽の行っている法律重視策の具体的なものとして、「九品官人法」の反対がありました。九品中正制度は陳羣が提案した制度です。
郡にいる「中正官」という役人が就職希望者に2~9までのランクを付ける方法です。この九品中正制度は中正官が地元の人間と結託して賄賂の横行が激しい難点もありました。
そこで曹爽派の夏侯玄は全ての人事権は中央の尚書省に集めることを提案しました。司馬懿は名士が曹爽や夏侯玄に反発していることを利用して、反対案も出しますが一蹴されました。
司馬懿はそれから、病気になったフリをして屋敷にこもって時を待ちました。
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司馬懿のクーデター
正始10年(249年)に曹爽は曹芳を伴って曹叡の墓参りに出かけました。司馬懿はこの隙を見逃さずに兵を集めてクーデターを起こしました。司馬懿の政治基盤である名士は成功すれば、自分たちの利益に繋がることから当然このクーデターを黙認しています。
これが有名な「正始の政変」です。洛陽を占拠すると郭皇太后に曹爽たちの解任を要求しました。さらに、洛陽の城門の封鎖・禁軍(近衛兵)の掌握・曹爽を弾劾する上奏文を準備しました。報告を聞いた曹爽は降伏すれば命は助けるという話を聞いて、降伏の準備を始めました。
だが、部下の桓範が決戦を主張しました。しかし、命が惜しかった曹爽や彼の兄弟は降伏の道を選びました。がっくりと肩を落とした桓範「父親の曹真は立派な人だったのに、お前たち兄弟は豚か牛のようだ。お前たちのせいで一族が皆殺しにあってしまう」と言ったそうです。
桓範の言葉は的中しました。司馬懿は最初から約束を守る気はありませんでした。曹爽・何晏・丁謐・李勝等が死罪にされました。
夏侯玄はこの時に死罪は免れましたが、後年に司馬懿の息子の司馬師により殺されました。こうして魏の権力は完全に司馬氏が握ることになったのです。
三国志ライター晃の独り言
以上が、司馬懿と曹爽の権力抗争「正始の政変」でした。
司馬懿は正始の政変から2年後の嘉平3年(251年)にこの世を去ります。
時代は司馬懿の息子の司馬師・司馬昭の時代に移っていき、彼らの死後は孫の司馬炎が魏を滅ぼして、西晋(265年~316年)になっていきます。
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