桓範(かんはん)は曹操(そうそう)の時代に魏国に仕え、曹丕(そうひ)・曹叡(そうえい)・曹芳(そうほう)の三代の皇帝に仕えます。曹芳の時代には曹家一門で同郷の後輩である曹爽を気にかけますが、彼に仕える事はしませんでした。その後司馬懿と曹爽一派が朝廷内の権力争いを行います。彼は権力争いに興味はなく、どちらの陣営にも属さず自らの仕事を一生懸命おこなっていました。しかし司馬懿が洛陽を制圧し、クーデターを起こすと、桓範は司馬懿に勝つ逆転の策を曹爽に献策します。今回は後輩を助けるために乾坤一擲の策を献策した桓範のお話をしたいと思います。
この記事の目次
魏に仕える
桓範は魏国を建国した曹操に仕えます。はじめは丞相府の役人として、上司から散々こきつかわれます。しかし桓範はめげずに堪えて、少しずつですが実績を上げていきます。曹丕が皇帝になると「皇覧」という書物の編集を任されます。こうして実績が周りに認められ、曹叡の時代には尚書令へ出世。尚書令時代には職務に通じた人材であると周りから高評価を得るまでになります。
地方へ転勤するが…
桓範は中央で長く勤めると、地方へ転勤する事になります。彼は地方に出ると青徐諸軍事(せいじょしょぐんじ=青州と徐州の軍権を束ねる役職)に昇進します。しかし徐州刺史と意見の食い違いから大喧嘩してしまいます。頭に血が上った桓範は徐州刺史を斬り殺そうとしますが、周りに止められて事なきを得ます。その後この事件は裁判にかけられ、桓範に非がある事が認められ、彼は免職処分になり、故郷へ帰郷する事になります。
短気な桓範は蒋済(しょうせい)と大喧嘩
桓範は徐州刺史と大喧嘩しますが、そのほかにも大喧嘩をしています。彼は役人の仕事に励む傍ら、若い頃から「漢書」の研究を行っており、その研究成果をまとめた書物である「世要論(よようろん)」と言う論文を完成させます。当時魏の重鎮であった蒋済は公正な人物として評価がありました。そのため桓範は蒋済に公正な評価をしてもらおうと「世要論」を見せます。だが蒋済は桓範の力作を全く見ませんでした。彼は自らの力作を見ない蒋済にブチ切れ、大声で怒鳴り散らします。蒋済は桓範から怒鳴られても全く言い返さず鋭い目つきを向けただけでした。その後も大声で怒鳴り散らす桓範を周りがなだめ、何事もなく終わりますが、以後桓範は蒋済とつきあう事はしませんでした。
大司農へ大抜擢
桓範は官職を罷免された後、自らの研究や読書をしながら過ごします。しかし四代目皇帝曹芳の時代になると大司農(だいしのう)へ抜擢されます。彼は久しぶりに官職に就き、職務に励みます。すると周りからは非常に高評価で、彼の名前は魏国の間で有名になります。桓範は大司農に就任してから数ヶ月後、同郷の後輩である曹爽が挨拶しに来ます。彼と親しくなかったため、すぐに挨拶を終わらせ、仕事に戻りますが、この時曹爽と挨拶を交わしたことが桓範の運命を大きく変えます。
曹爽と司馬懿の権力闘争
曹爽は始めこそ司馬懿(しばい)と協力しながら魏の国政を行っていましたが、次第に仲が悪くなってきます。その原因は蜀征伐の会議が原因です。曹爽は軍事的実績を残す為、蜀征伐を提案します。しかし軍事の経験が豊富な司馬懿は蜀征伐に猛反対。司馬懿は曹爽に対して「必ず失敗するからやめなさい」と反対意見を述べますが、群臣らが曹爽の提案である蜀征伐に賛成します。この時から二人の仲が悪くなります。その後司馬懿が引退を表明すると曹爽が魏の実権を握ります。
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