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2023年2月22日


関帝廟 関羽

 

武神(ぶしん)関羽(かんう)の大ファンであればぜひ訪れたいのが関帝廟(かんていびょう)

 

横浜関帝廟

 

関帝廟には関羽だけではなくその息子である関平(かんぺい)も祀られています。

 

 

父の最期まで付き従った関平ですから関羽と共に祀られるのは当然のことでしょう。

しかし、この関平の実の父親については様々な議論がなされています。

 

関羽と関索

 

関平と関羽は実の親子だったとか飽くまで養子に過ぎず、関羽と関平に血縁関係はなかったとか…。

実際のところはどうなっていのでしょうか?

 

今回は関平の実の親について調べてみました。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史『三国志』と『三国志演義』とでパパが違う

幕末 魏呉蜀 書物

 

実は、関平の実の父親とされている人物は正史『三国志(さんごくし)』と『三国志演義(さんごくしえんぎ)』とで異なっています。

 

そのため、正史『三国志』だけを読んでいる人と『三国志演義』だけを読んでいる人とで関平の父親についての見解が異なるわけです。

 

では、それぞれの書物では関平の実の父親は誰だと書かれているのでしょうか?

以下よりご紹介してきます。

 

 

 

関平は正史『三国志』では関羽の実の息子

劉備と関平たち

 

正史『三国志』において関平の名が登場するのは関羽伝のみです。

 

樊城の戦い

 

それもほぼ終盤で、初登場は関羽が荊州(けいしゅう)曹操(そうそう)軍及び孫権(そんけん)軍と戦っていた時分。

「権遣将逆撃羽、斬羽及子平臨沮。

(権将を遣りて羽を逆撃し、羽及び子の平を臨沮に斬る。)」

 

朱然によって捕まる関羽

 

このように孫権が派遣した武将に破られ関羽と共に打ち首に処せられたことだけが記載されています。

 

ここでは単に「子の平」とだけ書かれているため正史『三国志』においては関平は関羽の実の息子とされていることが窺えます。

最後の最後に突如として現れた関羽の息子・関平…。

 

関平について裴松之も特に注を付していないため本当に謎に包まれた存在です。

一体いつ誰との間に関羽は息子・関平をもうけたのでしょうね。

 

関連記事:ビックリ!周倉は三国志平話では関羽に殉じていなかった

 

 

『三国志演義』では関定の息子

西遊記巻物 書物

 

一方、『三国志演義』では関平は物語の序盤とも言える場面で出てきます。

 

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

それは、劉備があまりにも調子に乗りすぎて曹操を怒らせ徐州を追われてしまった後、バラバラにはぐれてしまった劉備(りゅうび)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)の桃園3兄弟がようやく再会を果たした館でのことでした。関定という人物の屋敷で再会を喜ぶ3人。

 

その様子を見ていた関定は同じ苗字を持つ関羽に対し、同族であるという理由により自分の次男の関平を養子にして一緒に連れて行ってやってほしいと申し込みます。

 

桃園兄弟

 

最初は難色を示していた関羽ですが、劉備が「子どももいないしおめでたいことではないか」と2人の間をとりなしたため、関平は晴れて関羽の養子になることになりました。

 

このような経緯が明かされていることから『三国志演義』では関平の実の父親は関定であることがわかります。

 

 

なぜ正史『三国志』と『三国志演義』とで実の父が違うのか?

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

ところで、なぜ正史『三国志』と『三国志演義』とで実の父親が違うのでしょうか。

 

『三国志演義』も正史『三国志』と同様に関羽と関平は血のつながりがあるという設定にしておいた方が何かと盛り上がるような気がしませんか?

しかし、関羽と関平は同時に命を散らしてしまう運命にあります。そのため、関羽と関平が実の親子関係にあると「血のつながりがあった息子まで死んでしまった…」と悲壮感が増してしまうことでしょう。

 

また、『三国志演義』には関羽と関平の死後に関羽の実子である関興が父の仇を討たんとおもむろに登場し、版本によっては関索という関羽の実子だと名乗る謎の人物まで登場しています。

 

羅漢中と関羽

 

このことからも、関羽の血を受け継ぐ人は生きていてほしいという『三国志演義』の編者や関羽ファンの強い思いが感じられませんか?

『三国志演義』において関平が関羽の実の息子として描かれなかったのは武神・関羽の死という悲劇を和らげるためだったのでしょう。

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

関平については正史『三国志』を読んでも関羽の息子ということしかわかりません。

そのことがむしろ『三国志演義』の作者の想像力を掻き立て、関平はより魅力的なキャラクターになることができたのでしょう。

 

しかし、あまりにも魅力的になりすぎて、関羽の血を引く者として父と共に命を散らせるのはあまりにも酷だと考えられたのだと思われます。

そこで、関平を関羽の義理の息子という設定にし、読者のショックを和らげようとしたのでしょうね。

 

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関平には兄弟がいた!?正史三国志と『演義』とで異なる兄弟構成

 

 

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