[馬良]夷陵の戦いでの違う描写!正史と三国志演義の理由

2023年5月6日


 

法正と劉備

 

三国志(さんごくし)正史(せいし)、そして三国志演義(さんごくしえんぎ)。この二つは読み比べるとだいぶ違いがあり、特に武将の扱いは人物によってかなり違いが出てきます。

 

馬良

 

その中でも一番の違いはその人物の死に様なのですが、ここで注目したいのが蜀将である「馬良(ばりょう)」。今回はその最期の記載に不思議な違いがある馬良を、彼の最後の戦となった夷陵の戦いと共に見ていきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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白眉の馬良、優秀で諸葛亮とも仲が良かった

馬良(眉白)

 

馬良は五人兄弟の中でも特に優れていて、眉に白い毛が混じっている所から「白眉(はくび)」と呼ばれましたこの言葉は「同じようなものの中でも最も優れているもの」という意味の故事となったという、優れた人物として紹介されている人物です。

 

 

馬良と孔明

 

また諸葛亮(しょかつりょう)とも仲が良かったようで、劉備(りゅうび)益州(えきしゅう)を手に入れる際には馬良は諸葛亮を手紙で励ますなど、私的な交流を持っていたと思われます。この手紙の中で馬良は諸葛亮のことを「尊兄(そんけい)」と呼んでいるので、諸葛亮と馬良は義兄弟の契りを交わしていたのではないかとも言われています。

 

 

 

夷陵の戦いでは異民族を率いて援軍に加わる馬良

馬良って何した人だっけ

 

その馬良は夷陵の戦いでは、異民族を率いて劉備への援軍として現れます。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

しかし皆さんも良くご存知の通り、夷陵の戦いでは蜀は呉に大敗。退却戦となってしまった乱戦の最中、援軍として蜀に味方してくれたはずの異民族たちはなんと馬良に敵対。

 

馬良は異民族を蜀から褒美を与えることを前提として味方に付けたので、敗北してしまった蜀ではもうその見返りも受けられないと判断されたのでしょう。

 

哀しいですがこれもまた戦争。

 

そして壮絶な乱戦の中、馬良は戦死します。享年は36歳という若さでした。

 

孔明

 

まだまだその才を蜀の未来に活かせるはずだった白眉は、夷陵の地で戦死してしまうのです。蜀にとっても、また諸葛亮個人にとってもこの馬良の死は痛すぎる出来事だったことでしょう。

 

 

正史と演義の扱いが不思議と違う?

 

さて正史では馬良は夷陵の戦いで援軍を率いて参戦するも、蜀軍の敗北からその異民族によって殺されてしまうという最期になりました。

 

では演義ではどうなっているかというと…なんとその最期は病死です。

しかも夷陵の戦いの後の南蛮征伐の直前にいきなり思い出したかのように病死したと語られます。

 

演義では夷陵の戦いで戦死せず、何とか帰還できたと語られるのにその後特に出番や活躍がある訳でもなく、かといって兄弟や諸葛亮に看取られて才を惜しまれてのドラマチックなラストシーンでもなく、馬良はいきなりナレーションによって病死されたと言われるのです。

 

これははっきり言って珍しいことです。

 

正史では病死だけど演義では戦死、という逆パターンならありそうなのに、というか呉の甘寧(かんねい)を始めとした数多くの武将たちがそうなっているのに、どうして蜀の武将であった馬良がこんな不思議な扱いをされてしまったのでしょうか?

 

そこでちょっと最後に蛇足となりますが、馬良がどうして演義では病死にされたのか考えてみましょう。

 

 

どうして馬良の扱いが違っているのか?そこにどんな意図があったのか?

はてなマークな劉備と袁術

 

考察できる理由はいくつかあるので、ちょっとここで筆者の想像(妄想?)を語ってみたいと思います。

 

まずただ戦死だとイマイチ、と思われた。呉の有名武将相手じゃなく味方に付けたはずの異民族になんて…もっと別の華々しいラストにしよう!と、羅貫中(らかんちゅう)は考えたのではないでしょうか?

 

そして「白眉」とまで呼ばれた馬良にちょっとカッコいいエピソードを盛り込もうとした可能性も考えられます。羅貫中は馬良を白眉として才気溢れる人物と書いているだけでなく、誠実さ、人間性を称えています。

 

 

 

なので戦死ではなくどこかでもっと馬良を綺麗に終わらせようとして…夷陵の戦いの後で何かカッコいい白眉的なエピソードを書こうと思っていて…色々と書かなきゃいけないシーンがあって…気付けばいつの間にか南蛮征伐が始まってしまった。

 

そこで慌てて思い出したように馬良の死をナレーションしてしまった…と言うのは、あくまで筆者の想像に過ぎません。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

ですが、言い方は悪いけれど三国志演義と言うのは正史をベースに分かりやすくまとめた人気連載歴史小説のようなものです。

 

書いている人間の思い入れやちょっとしたド忘れが出てしまうってこともあるんじゃないでしょうか?

 

最悪の想像として馬良がどこで死んだのか知らず、南蛮征伐までまとめてから知って慌てて書き足した…という想像もできますが、流石に馬良の死に様くらいは事前に調べていたのではないかと思いますので…やはり、「羅貫中の馬良の最期に箔付け説」を挙げたいと思います。

 

最初に読んだ時こそ「こんなあっさり死んだとか書くならもう夷陵で討ち死にで良かったんじゃ…」と筆者は思ってしまいましたが、羅貫中先生の心境や書かれた当時の状況などを想像していると色々と妄想が膨らんでしまいました。

 

他の武将もだいぶ前に病死してしまったと言われたのにいきなり北伐で出てきていたりするので、こういった想像をしてしまいました。

歴史好き、三国志好きの方には怒られてしまいそうですが、あくまで筆者の想像のお話として流して下さいね!

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

正史と演義を見比べると違いは色々ありますが、馬良のパターンは珍しいパターンです。演義の最後しか知らないと、正史の夷陵の戦いでの壮絶な討ち死にを知って驚くかもしれませんね。その最後はちょっと不思議な白眉の「最期」。

 

それが語られるまでにどんな理由があって、思惑があったのか?それを考えるのもまた三国志の楽しみ方。

 

皆さんはどう思いましたか?

 

参考文献:正史 三国志 呉書(ちくま学芸文庫)

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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