第一次北伐戦は馬謖が街亭の戦いで敗北したため、蜀軍の全軍が撤退することになったのは、みなさんご存知かと思います。もし街亭の戦いで諸葛孔明が馬謖ではなく、魏延を用いて街亭を守らせていれば、どうなっていたのでしょうか。
今回は魏延が街亭を守っていた場合の推論を述べてみたいと思います。
第一次北伐戦の意義とは?
諸葛孔明は魏を討伐するため「出師の表」を劉禅へ送り、北伐を決行。諸葛孔明は何度も北伐を行うため、この最初の北伐を後世「第一次北伐戦」と呼ばれることになります。
諸葛孔明が行った第一次北伐戦ですが、どのような目的をもって実行したのでしょうか。諸葛孔明は第一次北伐戦で魏を打倒して、劉備の夢であった後漢王朝の復興をするために行われた作戦ではなく、魏の西方部にある涼州を占領することが目的でした。
諸葛孔明は魏の涼州を手に入れるため、街亭で長安からやってくる涼州救援軍を防ぎ、街亭で敵軍を防いでいる間に涼州全域を手中に収めようとするのが、第一次北伐戦の全容です。
史実の街亭の戦いは大敗北
諸葛孔明は、この第一次北伐戦の肝となる超重要任務である街亭守備の役目を次世代の人材として期待していた馬謖を起用。馬謖は諸葛孔明に街亭守備を任されますが、高所から魏の救援軍を攻撃する作戦を計画し、蜀軍を山に登らせ魏軍を迎撃する準備を行います。
魏の張郃は馬謖の作戦を警戒することなく、馬謖が陣取っている山を包囲し、総攻撃を行い、馬謖軍を難なく蹴散らしてしまいます。
諸葛孔明は馬謖が敗北し、街亭が魏軍に奪われたことを知って蜀軍の全軍を撤退。第一次北伐戦は馬謖の作戦ミスにより、街亭が取られたため、大失敗に終わってしまうのでした。
魏延を用いていれば北伐戦の成功率は格段に高かった!?
馬謖はどうして街亭の戦いに敗北したのか。それは馬謖が考えた山に上った際、兵士の飲み水を確保しなかったことにあります。もし馬謖が飲み水を確保して山上へ陣営を築けば、もう少し違った展開になっていたかもしれません。
では魏延が街亭を守っていたとすれば、どうなっていたのでしょうか。
魏延は劉備が益州攻略戦の時に配下へ加わり、その後色々な戦を経験していることから、実戦経験豊かな将軍でした。そのため魏延は馬謖が行ったように山上へ陣営を置くことなく平地に砦を構築し、しっかりとした防御を施して魏軍を防ぐ陣営を構築したと思われます。
張郃は魏延が平地の砦に陣営を構築したとすれば、容易に攻撃することができず、長い対陣を強いられることになったと思われます。魏延が張郃を足止めすることに成功すれば、その間諸葛孔明は涼州制圧に時間を割くことができ、涼州一帯を蜀の版図にすることも可能でした。
そして諸葛孔明が涼州一帯を領土に収めることができれば、上記で説明した第一次北伐戦の目的を達成できたはず。これらを考慮すると諸葛孔明が馬謖を起用してしまったのは、蜀の北伐戦にとって大きな痛手だったと言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
魏延はどうして街亭の守りを諸葛孔明から任されなかったのでしょうか。ここからはレンの推論になりますので、ご了承ください。魏延が活用されなかった理由は、諸葛孔明が彼を深く知っていなかったからだと考えます。
諸葛孔明は街亭の守りを馬謖へ任せた理由として、軍略のアドバイスを諸葛孔明へ行っていた事が、挙げられると思います。馬謖は参軍になった際、諸葛孔明と南蛮征伐について議論を交わしている事や諸葛孔明と昼から夜までずっと軍事のことについて語っていたと正史三国志に記載。
そのため諸葛孔明は馬謖の軍事における知識の深さと豊富な見識、彼の人間性をある程度知っていたため、街亭の守備に活用したと考えることができます。諸葛孔明は馬謖のように魏延と戦術や戦略について語り合っていたと正史三国志に記載がありませんでした。
さて皆さんが諸葛孔明だったらどうしますか。色々な事を語って人間性を知っている馬謖と実戦経験の豊富さを知っていても、人間性についてほとんど知らない魏延のどちらを活用しますか。
多分みなさんは見知っている人・馬謖を活用するはずです。レンも馬謖を活用すると思います。そして諸葛孔明も人間性や戦術面における優秀さを知っている馬謖を活用し、何にも知らない魏延を活用できなかったと考えました。
皆様はどうして諸葛孔明が魏延を活用しなかったと思いますか。
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