槍の名手として名高い趙雲ですが、史実でも本当に活躍していたのでしょうか。マンガやゲームなどで脚色されているのではと疑う読者もいると思います。
ここでは史実の趙雲をテーゼに紹介していきます。
単騎で走る趙雲
趙雲はかつて幼い頃の劉禅を救ったことがあります。劉禅とは劉備の息子です。長坂坡の戦いで、劉備は逃げ出す途中で妻と子供たちとはぐれてしまいました。
後に、孫権は劉備が蜀に入るとき孫夫人を迎えに行きました。そのとき孫夫人は劉禅を連れ去ってしまったのです。
いわば誘拐犯です。当時、劉備は荊州の「公安」という場所に滞在しており、趙雲に指示して劉備の家族や孫夫人も公安に入っていたのです。
孫夫人が公安で董卓のごとく跳梁跋扈したので、劉備は趙雲に公安の内政を引き受けるように命令。そのとき孫夫人が劉禅を連れ去ったことを知ると、趙雲はすぐに追いかけて劉禅を川で救出しました。
二度も敵の手に渡った劉禅は、後に「蜀の皇帝」となります。
後漢時代、皇帝となった劉禅は趙雲の功績によって幼い頃に何度か困難を乗り越えたと姜維たちに熱く語りました。こうして姜維たちにとって趙雲は雲の上の存在となったのです。
領土拡大
劉備が蜀に入り、劉璋と犬猿の仲になると趙雲と諸葛亮孔明、張飛たちは合同で「西川」の討伐に乗り出します。手始めに巴東郡と巴郡を襲撃。
趙雲と張飛は江州で兵を分け、「江陽」と「犍」の二つのエリアを平定します。この二郡は蜀でも広大な土地を有し、蜀郡・広漢郡と合わせて「三蜀」と呼ばれていました。同時に蜀の主な財政源でもあったため蜀の財政は趙雲らの活躍によって安定したのです。
そして、このエリアは「蜀」の国名の由来ともなっています。趙雲が蜀を平定したことで劉備は蜀の中心部を南側から囲むように支配できるようになりました。
現代風にいえば、自衛隊にイージス艦とオスプレイ、そしてエシュロンを配備したようなものです。
漢中で曹操を破る
西暦218年。呉の孫権と良好な関係にあった劉備は巴西の張郃を何度も撃退します。ほどなく「漢中」をかけて魏と争うようになり、同じ年の7月に曹操は派兵します。
漢中を攻撃する劉備から守るためです。
9月に入ると曹操軍は長安へと駐留、双方の緊張が高まります。翌年、劉備は「夏侯淵」を討伐、3ヵ月に渡って曹操軍と戦うのです。
劉備は自信満々でしたが、守り抜くのが次第に厳しくなってきました。この時、曹操は「北山下」に兵糧を送ります。現地で待ち構えていた黄忠が取りに行きますが、すでに兵糧は見当たりません。
折よく到着していた趙雲が曹操軍と一戦を交えていたのです。趙雲は騎馬兵を上手に操り、曹操軍を一網打尽。敗走した曹操軍は陣に戻りますが、趙雲が待ち伏せしていると思い、再出撃することはありませんでした。
実は趙雲は撤退するときにドンドンと太鼓を派手に鳴らし、後衛には雨のような矢を降らせるよう指示していたのです。そして、敵兵の死体を大量に川に流し、溺死させました。こうした状況は敵兵に多大なダメージを与え、勢いのあった曹操軍は趙雲の戦法によって遁走。
形勢は一気に劉備サイドに傾きます。半年に渡って準備した曹操の兵はたった2か月で敗れてしまうのです。この戦いはそのまま歴史書に記録されました。
三国志ライター 上海くじらの独り言
趙雲の活躍は少し大げさではないかと思っていた読者もいるでしょう。しかし、史実を辿るとそうでもないことが分かってきます。
それだけに趙雲の知名度はあらゆるシーンで向上しました。
劉備とは桃園の契りは交わしていませんが、それと同じくらい深い親交があったのもうなずけます。また、のちに蜀の皇帝となる劉禅を救ったのも劉備に感謝された理由の一つです。戦の中、必死に自分の子どもを救ってくれたとなれば、どんな親でも感謝することでしょう。
参考文献:「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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