三国志を知っている人なら7割以上の方が、一度は聞いたことがある董卓。董卓は後漢王朝ラストエンペラー・劉協を擁立し、政権を握ってやりたい放題行い、洛陽を燃やし尽くした極悪非道のイメージが強い人だと思います。
悪い部分が強調されてしまう董卓ですが、魅力的な部分もいくつかあるはずだと思い、今回は彼のいい所ばかりを紹介。
人望のある人物
董卓は、青年時代から悪い事ばかりをしていたわけではなく、かなり魅力的な人でした。一例を挙げると正史三国志にこのような記述があります。董卓は若い頃、羌族の部落をいくつも巡って、集落の顔役と親睦を深める旅行をしていました。
ある日羌族の集落の顔役は、董卓が住んでいる村へやってきます。羌族の集落の顔役は、董卓が自分の村にやってきて親睦を深めた返礼として、やってきたのかもしれません。
さて董卓は羌族の顔役がやって来ると、顔役を家に案内してわざわざ顔役の為に牛を捌いて宴会を催し、顔役をもてなします。顔役たちは董卓のおもてなしに感動し、村へ帰ると自分の村で飼っている牛を千頭ほど集めて、董卓へプレゼント。
このことから董卓は羌族の顔役たちから人望があり、彼の魅力的な部分の一つと言えるでしょう。
武勇に優れ、部下を愛す!!
董卓は羌族から人気を集めていただけでなく、他にも良い所がたくさんあります。それは董卓の若い頃のエピソードから今回も紹介しましょう。董卓は羌族の村々を回っていた事もあり、馬術と弓術に優れ、馬に乗りながら疾駆し、左右どちらからでも弓を射ることが出来たそうです。
三国志の武将の中で、これほどの馬術と弓術の使い手はなかなかいません。また董卓は武術にも優れた人物で、類まれな腕力があったと正史三国志に記述があり、とてつもなく力強い人だったことが伺えます。
董卓は馬術と弓術、腕力を生かし幷州で反乱が勃発すると討伐軍へ参加し、大きな武功を挙げたそうです。董卓は幷州の反乱討伐軍の将・張奐から恩賞を拝命。
董卓は張奐からもらった恩賞をすべて、自分が受け取るのではなく、必死に働いて幷州討伐戦で戦ってくれた部下達へ。このエピソードから董卓が部下達を愛していた事が分かり、洛陽の街を放火したり、政権を握ってやりたい放題していた彼とは別人のような振る舞いをしています。
統率力に秀でる
ここでは董卓の一番優れている部分を紹介したいと思います。董卓の最良の部分は部下をしっかりと掌握していた所だと思います。董卓の将軍連中は、ほとんど暴れ者ばかりでした。
例えば董卓の死後、長安を占拠しやりたい放題して、長安の人々を恐怖のどん底へ落した李傕や郭汜。
また武勇においては三国志一の強さを持ち、「人中の呂布。馬中の赤兎」で知られる董卓の義理の息子・呂布。
更に彼らに負けないくらい荒れていた徐栄や華雄、樊稠などが居ます。董卓はこれらの暴れ者をしっかりと統率して、用いていた部分は三国志の群雄たちも真似できない、魅力的な部分であり、すごい所だと言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は董卓の魅力的な部分について紹介しました。また董卓は袁紹が盟主となって結成した反董卓連合軍に対して、一歩も後れを取らず、曹操軍や鮑信軍、孫堅軍を撃破しています。
このことから彼が戦術面においても、優れていた人物だった事が伺えます。他にも董卓は太師の位になった時、昔仲が悪かった皇甫嵩を引見。
この時董卓は「怖くないかね」と皇甫嵩へ尋ねます。
すると皇甫嵩は「いやいや。朝廷を補佐している殿を怖がる必要がありましょうか。しかし殿が刑罰を乱用したり、権力を振りかざしてやりたい放題行えば、天下の人々はみな怖がるでしょう。」と注意。
すると董卓は皇甫嵩に対して激怒するかと思いきや、彼とのわだかまりを解消し、今までの事を水に流して和解したと正史三国志にあります。このことから董卓は自分に逆らったりした人物を殺害しまくっていましたが、意外と人を許す心も持ち合わせていた事が上記のエピソードでわかります。このように董卓にはかなり多くの魅力的な部分がある人物でした。
■参考文献 正史三国志魏書等
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