映画でもゲームでも三国志における注目の戦い。
それが「赤壁の戦い」です。
日本史で言えば「関ヶ原の戦い」でしょうか。
東軍と西軍の二大勢力が激突したという点では似ている戦いです。
この記事の目次
司馬懿が士官した年と赤壁の戦いの年が同じ!?
世に名高い赤壁の戦いが始まったのは西暦208年。軍師の司馬懿が曹操に士官したのも西暦208年です。赤壁の戦いに関する歴史書に司馬懿の記述がないことから、曹操は赤壁の戦い以後に司馬懿を軍師に向かえたことになります。
さて、その司馬懿ですが、西暦201年に曹操からの使者を仮病を使って追っ払っています。当時、曹操は大した権力もなく漢王朝も傾いていたことから、仕えたところで先がないと踏んでいたのです。幼い頃から曹操の配下である策士と交流があった司馬懿らしい神対応です。
郭嘉は、いつ天に召されたの?
司馬懿ほど名声はありませんが、郭嘉は司馬懿より早い時期に曹操に仕えています。
時に西暦197年のことでした。
最初は袁紹の元を訪ねるのですが、ひどく落胆し主君を曹操に鞍替えします。
よほど袁紹に魅力がなかったのでしょう。
他方で曹操とは互いを褒め合うほど尊敬する間柄。両者の関係は、現在の日米同盟のように強固でした。
ところが、西暦207年に郭嘉はこの世を去ります。生涯が短かったこともありますが、郭嘉は名を偽って一部の知識人と交流していたため、それほど名が知られなかったようです。
翌年、曹操は赤壁の戦いで大敗を喫することになります。
もし、赤壁の戦いまで郭嘉が健在だったら?
敵軍の周瑜の言葉を借りれば、曹操軍は烏合の衆。
本意から従っている配下は少ない。
よって、勝因は劉備・孫権の同盟軍にあるとしたのです。同盟軍の中には戦いを渋る武将もいましたが、周瑜は開戦を推したのです。
ここで郭嘉がまだこの世にいたら、戦局はどうなっていたでしょうか。
赤壁の戦いの命運を分ける出来事といえば、曹操軍が船に火をつけられたことでしょう。
ゲーム「三国無双」シリーズでも船に火をつけられないと同盟軍は負けます。
また、曹操軍が疫病にやられていたことも敗因の一つです。
中国大陸は淮河を基準に南北で気候が異なります。
『淮河』は長江のやや北にあり、”赤壁”にほど近い現在の湖北省・荊州は淮河の南側です。
曹操が主な拠点としていた現在の陝西省は淮河の北。乾燥した黄土高原と湿潤な江南の地とでは食べ物もだいぶ異なっていたでしょう。
曹操は大軍で赤壁の戦いに臨んだことから、疫病の広がりも尋常ではなかったはずです。
もし郭嘉が生きていれば、曹操に対して撤退するか別の作戦を進言していたに違いありません。
疫病を抑えるために兵を隔離したり、火攻めに合わないよう陸上戦に持ち込んだかもしれません。結果として同盟軍は勝利しましたが、曹操の首を取ることは叶いませんでした。
やがて、同盟を組んでいた劉備と孫権は敵対することになります。
なぜ曹操は司馬懿招集に強硬手段を用いたのか?
赤壁の戦いで痛い思いをした曹操。やはり抜きん出た人材を必要としたのでしょう。
応じなければ、殺しても構わないとまで告げて、「文学掾」を派遣します。念願叶って、曹操はついに名軍師”司馬懿”を配下に加えるのです。
現代風にいえば、ヘッドハンティングしにいって断られたら銃で殺してしまえと言っているようなものです。好待遇で曹操社長の会社に転職するだけでよいならば、たいていの人は転職を選ぶでしょう。
三国志ライター 上海くじらの独り言
軍師と赤壁の戦いをテーマにお届けしました。
曹操は赤壁の戦いで負けたあと、死去した軍師を思い出し「郭嘉さえいればこの大敗は免れたであろう」と語っています。
それだけ曹操にとって”郭嘉の死”と”赤壁の戦いでの敗北”は痛手となりました。
無敵と言われる曹操も戦には敗れているのです。
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