呂布と曹操の戦いである下邳の戦い、その激しい戦いは三国志演義で描かれています。
そしてその最中、曹操の配下であった夏候惇は目を負傷、矢に射られた目を食べてしまうという豪胆っぷりを見せつけます……が、このシーンは実は演義の創作で、正史ではあくまで目を負傷としか書かれていません。
どうしてこんなシーンが描かれたのか?
今回はちょっと趣向を変えて、夏候惇に猛将のイメージが付け加えられた理由を考察していってみましょう。
下邳の戦いで目を負傷した夏候惇
さて少しおさらいをしていきましょう。曹操は下邳で呂布と戦います。
実際に下邳で夏候惇が目を負傷したかどうかは明確ではないものの、夏候惇が目を負傷したのは「呂布との戦いの中」と書かれているので、下ヒの戦いで目を負傷した、と考えられているのが多いです。
さてここで夏候惇が目を負傷したまでは正史と同じ、しかしその後で目玉を食べてしまうというシーンを書いたのは演義の方です。このイメージが強いために夏候惇は猛将、武将のイメージが強いという人も多いのではないでしょうか?そして次に、夏候惇の三国志演義での扱いについて見ていきたいと思います。
夏候惇の扱いは三国志演義でもかなり良い方?
夏侯惇が猛将のイメージが強いのは演義のイメージが強いことが原因と思われます。
三国志演義では目を食べたシーン、関羽との一騎打ちなどのシーンが描かれています。因みに正史でも師を馬鹿にした人物を切り殺した逸話があるので、気性の激しい面は確かにあったのでしょう。
さて演義は良く蜀びいきの魏の印象下げ、と言われます。別に敗北していない武将が蜀の武将にやられるシーンはある意味で演義の定番とも言えます。
その演義の被害者の人たちが多い中、夏候惇もまた諸葛亮を侮って敗北するシーンがあります。しかしその後、夏候惇は自らを配下に縄で縛らせてから曹操に謁見します。これは自らの敗北の罪を乞うシーンで、夏候惇は敗北しながらもその罪を償う意思がある、好人物とも言えるような描写、つまり言ってしまえばフォローシーンです。
このような描き方をされている魏の武将はあまりいません。
なのでおそらく、作者、羅貫中を始めとした人物たちは蜀びいきでありながら夏候惇に対してかなり好感を抱いていたのではないか、と想像できるのではないでしょうか。
夏侯惇という将のイメージと実際の存在
さて猛将のイメージが強い夏候惇ですが、実際は戦いで勇猛果敢に戦った、とか、数多くの敵を打ち取った、とかではなく、後方支援を上手に行ったり、民政などでも功績を残している人物です。つまり文官に近い人物なんですね。
また農業や道の整備などの指導を行うなど、民にとっても助かる人物でした。このため夏候惇は多くの人物に非常に好かれ、民衆からも人気があっただけでなく、上司、同僚、配下と多くの人物を引き付ける魅力を持っていた人物なのです。
……そう、この人物をそのまま描くと演義では劉備と重なってしまいます。
またやはり演義で活躍するというと華々しい戦働きの猛将が多いので、そこを踏まえて夏候惇は演義では猛将のイメージを付けるために目のエピソードを入れたり、したのでは?と想像しています。文官として農業奨励をやっていた人物です!というのは、ちょっと描きにくいシーンと言えますからね。
エピソード~夏候惇が如何に好かれていたのか~
最後に夏候惇が周囲に好かれていたというエピソードを紹介しましょう。
陳宮が反乱を起こした時、夏候惇は呂布に捕まってしまいます。この時に夏候惇の陣営は真っ青、どうにかして助けなければと大慌て。しかし反乱を起こした陳宮や呂布に敗北することは許されません。
韓浩は涙を流しながら「国法を守るために、見殺しにしなければいけないとは」と夏候惇に詫びながら戦いました。それが結果として夏候惇を救うことになったので結果オーライなのですが、この時の夏候惇陣営の反応や、韓浩の反応から非常に夏候惇が慕われていた人物だと想像できますね。
夏候惇は完ぺき超人ではなく、時にミスを犯します。しかしその際に必ず周囲が助けてあげたい、と思わせる魅力があったようです。そんな夏候惇の一面を考えると、何だか更に魅力が湧いてきますね。
三国志ライター センの独り言
夏候惇のもう一つの一面はいかがだったでしょうか?
そしてまた同時に演義での扱いにも言及しつつ、彼の魅力について語ってみました。知れば知るほど魅力に溢れた武将ですので、まだ知らない方はぜひ新たな夏候惇の魅力を再発見して下さいね。
参考:wikipedia夏侯惇
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