呂布の参謀として活躍した陳宮。蒼天航路の陳宮は呂布との絆の強さを感じさせる描き方がされています。
また陳宮は呂布の参謀として曹操軍と戦いますが、下邳城での籠城戦で敗北し、曹操軍に捕虜として捕まってしまい、処刑されなくなってしまいます。
このように陳宮は最後の最後まで呂布に忠義を尽くしているように見えます。しかし陳宮は呂布を一回裏切ろうとしていたのです。
陳宮が裏切ろうとしたのはいつ頃?
陳宮は呂布をいつ頃裏切ろうとしていたのでしょうか。それは劉備が袁術と戦っている隙に呂布が徐州を奪った時です。
陳宮は呂布が劉備の居城・下邳城を守っていた張飛と曹豹を撃破した後、呂布を裏切る計画を実行するのです。
陳宮は呂布を裏切る
陳宮は呂布が劉備の下邳城を奪い取ることに成功すると、呂布軍の将軍である郝萌へ「手を組んで呂布を殺害しないか」と提案。郝萌は陳宮の計画に賛成し、呂布のいる下邳城の政庁を攻撃。
郝萌率いる軍勢は呂布のいる政庁へ攻撃を仕掛けますが、呂布の親衛隊が守る門を破壊することができずに手こずってしまいます。
呂布は反乱がおきた事をすると奥さんを連れて政庁を脱出し、呂布軍の将軍・高順の陣営へ逃げこみます。呂布は高順へ「誰かが裏切って私を攻撃してきた」と激怒。
高順は冷静に「将軍は反乱を起こした兵たちに気が付くことがありませんでしたか。」と呂布へ聞き込み調査を行います。
すると呂布は「反乱兵達には河内のなまりがあった」と高順へ話します。高順は呂布の話を聞いてすぐに兵士を郝萌の陣営へ出陣。
郝萌は高順軍の攻撃を受けて壊滅し、高順によって殺害されてしまうのでした。こうして陳宮が計画した反乱はあっけなく幕を閉じてしまうのでした。
しかし陳宮は呂布に反乱を起こした後、一体どうするつもりだったのでしょうか。
呂布殺害後どうするつもりだったの?
陳宮は呂布に反乱を起こした後、一体どうするつもりだったのか。ここでは陳宮の反乱を起したあと、どうするつもりだったのか紹介したいと思います。
陳宮は呂布に反乱を起こす前、淮南地方一帯に勢力を持っていた袁術と手を結んでいたそうです。ここまでは正史三国志に記載されていることですが、その後陳宮がどのようにするつもりだったのか記載されていません。
そのためここからはレンの推測になります。陳宮は郝萌が呂布を討ち取った後、袁術の軍勢を引き入れて、反乱を起こした陳宮に反対する勢力を全て駆逐するつもりだったのではないでしょうか。
陳宮は自分に反対する勢力を全て駆逐したあと、徐州を袁術に任せるつもりだったのかもしれません。もしくは小沛に残っている劉備を向かい入れて、再び劉備を徐州の主とするつもりだったのかもしれません。
しかしここで最大の疑問が残りますね。それは陳宮がどうして呂布へ反乱を起こしたのかという事です。
陳宮が反乱を起こした理由とは?
陳宮はどうして呂布に反乱を起こしたのでしょうか。それは陳宮が提案した戦術や策謀を呂布が一回も採用しなかったからです。
正史三国志の呂布伝の中にある陳宮に関する記述があります。
それによりますと陳宮は元々曹操の配下でしたが、曹操に疑念を抱いたため、曹操の親友・張邈を動かして、曹操の領土であった兗州へ呂布を招き入れ、曹操に反旗を翻したそうです。
陳宮は曹操の領土である兗州のほとんどを呂布の領土にすることに成功しますが、肝心の呂布が陳宮の提案する戦術に従う事をしなかったそうです。その後も呂布は陳宮が提案する作戦に一切耳を貸さなかったそうです。
陳宮は呂布のために一生懸命献策しているのに呂布が自分の提案した献策を採用しないことに激怒し、反乱を起こすことになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
陳宮は呂布を裏切ろうとして作戦を立てますが、失敗に終わってしまいます。
その後陳宮は郝萌の配下・曹性が呂布の配下達が居並ぶ前で、「陳宮と郝萌、袁術が手を組んで反乱を起こしたのです」と呂布へ伝えます。呂布は激怒しますが、陳宮を許して今まで通りそばに置いていたそうです。呂布の優しい一面が垣間見えます。
しかし呂布はその後も陳宮が提案した作戦を取り上げる事なく、滅亡を迎えることになるのです。
■参考 正史三国志魏書など
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