蜀の劉備は、どのようにして軍師・諸葛亮を仲間に引き入れたのでしょうか。驚きの知略とともにお伝えしていきます。
劉備が来ても会わなかった!?
劉備に天下を取らせようと語った「天下三分の計」。耳にしたことのある読者もいるでしょう。しかし、諸葛亮の賭けは劉備と会う前から始まっていたのです。
仮にあなたが限定販売されている人気アーティストのグッズが欲しかったとします。限定なのでインターネットで抽選となりました。残念ながら落選してしまいました。
すると、オークションサイトでグッズが出品されていないか探し回るでしょう。
この時点で、あなたの商品に対する期待感やリッチ度が高まっているのです。これと同じ状況を諸葛亮は1800年近く前に行っています。
それが「三顧の礼」です。手始めに諸葛亮は部下を劉備へ派遣します。部下は諸葛亮の名前を巧みに出し、偉大な計略をもっているとほのめかします。当時、人材不足に陥っていた劉備は喉から手が出るほど軍師を欲しがりました。
しかし、部下はこう回答します。「雲の上の人物だから、私が間に入っても応じてくれませんよ」ここで劉備の中で諸葛亮のレア度がいっきに高まります。つまり「もし、来れるなら配下に加えよう」という軽い状態から「そんなにすごい人なのか」という印象に変化します。
本当に粗末な家に住んでいた諸葛亮ですが、一回目で安々と会うようでは価値が下がるとして劉備に顔すら見せません。足しげく通う劉備ですが、二回目も諸葛亮には会えません。
いよいよ劉備は何としても諸葛亮に会いたくなりました。ついに諸葛亮は三回目で劉備に対面するのです。この時の劉備の心境は宝くじに当たったような状態です。
さらに天下三分の計を披露し、劉備を権力者にしようと誘います。単に呉や魏が邪魔だなと感じていた程度の劉備は途端に目が覚めます。敵と対峙する前にしっかりと地盤を固めるように勧められたからです。
そのうえで呉と組み、魏の曹操を倒す。こうして天下を三つに分ければ、戦乱も落ち着くと諭すのです。すでに劉備の心は諸葛亮に操られていました。
琴の弦で攻撃した!?
第一次北伐。すでに劉備は蜀の地を得ていました。この頃になると諸葛亮も戦地へ赴くようになります。そこで出迎えたのが魏の司馬懿、15万の大軍です。一方で城に残っていた諸葛亮軍は、たったの2千。
大軍でもって少数を攻撃するのが当時の兵法でしたから、このままでは負けは確実です。そこで諸葛亮がとった行動が城門を開け、周りをきれいに掃除しておくことでした。さらに敵が来ても物音を立てないよう2千の兵のすべてに伝令します。
自信満々でやって来た司馬懿。敵のいる城のメインゲートは開かれ、物音一つしない状況に不気味さを感じます。
さらに諸葛亮は城門の上で優雅に琴を奏でる始末。普通の人なら何から企んでいると考えるでしょう。聡明な司馬懿であれば、なお気味悪がったはずです。
さらに琴を弾きながら、弦を切った諸葛亮。ただの緊張からの失態だったのですが、司馬懿は攻撃の合図と勘違いし全軍に撤退を命じます。あとで空城の計と知った司馬懿は心底悔しがったとのことです。
自らの死も戦略だった!?
五丈原の戦いで再び相まみえた司馬懿と諸葛亮。孫権の援軍も空しく、諸葛亮軍は五丈原から撤退を開始します。
実はこの時、諸葛亮はすでに亡くなっていました。戦では大将の死を隠す傾向がありますが、司馬懿は確証を得られませんでした。
司馬懿は撤退する諸葛亮の軍を追いかけるものの、劣勢と思っていた諸葛亮軍は急に反撃の姿勢を見せます。”もしかして諸葛亮の死は罠ではないか”と疑った司馬懿は追撃の手を止めます。
世にいわれる「死せる孔明生ける仲達を走らす」です。仲達とは司馬懿の別名、孔明は諸葛亮を指します。
偉大な人物は死してもなお、その影響力を及ぼすという意味で現代でも使われています。そして、司馬懿は諸葛亮を「天下の奇才」と称えたのでした。
三国志ライター上海くじらの独り言
諸葛亮にまつわる逸話を3つほど紹介しました。他にも祈祷によって風向きを変えたとか、考えられないようなエピソードもあります。
おそらく天文学の知識を持っていたことから発展した逸話でしょう。世界広しといえども諸葛亮ほど多くの名言を残した人物は他にいないかもしれません。
▼こちらもどうぞ
諸葛孔明が10万本の矢を調達・生産したことに魯粛は驚いたのか?