199年に公孫瓚を滅ぼし、冀州・青州・并州・幽州を制覇するに至った袁紹は、並みいる群雄の中で当時もっとも天下に近い存在にありました。
しかし、官渡の戦いで曹操にフルボッコされたわずか2年後、敗戦の精神的ショックから血を吐き倒れ死んだとされていますが、袁紹の死因は本当にメンタルの弱さにあったのでしょうか、徹底検証します。
この記事の目次
袁紹がメンタルの弱さから病気になったとする根拠をまず論破!
袁紹は後漢朝廷において4世代にわたり行政のトップである三公を輩出した、「汝南袁氏」の出身です。
一族繁栄の礎を築いた始祖・袁安は、政敵である竇氏の専権を気に病みつつ死去。さらに、ひいおじいさんにあたる袁敞は息子の不祥事を恥じ自殺しているほか、
いとこにあたる袁術も落ちぶれた身の上に絶望し、2Lもの血を吐いて死んだと伝えられるなど、袁家には代々メンタルの弱さが垣間見える逸話が残っています。
そのため、良家のボンボンである袁紹も袁術と同様にメンタルが弱く、格下・曹操に負けたショックで病気になり失意のうちに死んだ、というエピソードが良く出てくるわけです。
しかし袁紹は、根っからの御曹司である袁術とは異なり生まれてすぐ父と死別、20歳の若さで渤海令に任じられましたが、生母が亡くなると父への考も尽くすため、合計6年の喪に服した後、洛陽で隠遁生活を送っていた苦労人。
同じころ仲間と放蕩の限りを尽くしていた袁術と違い、快活な性格と名家出身らしからぬ謙虚な態度から、後に覇権を争う曹操はじめ大勢の人々から慕われたのだとか。
また、数年にわたりしぶとく包囲を続け地道に地下道を掘り、天下の堅城を攻略して公孫瓚を自決に追い込んだ易京の戦いを見ても、彼の用心深く我慢強い性格が見えてきます。
快活で我慢強い性格の袁紹がいかに大戦とはいえ、一度の敗北でショックを受け健康を害したとは、とても考えられないのです。
官渡の戦いでフルボッコされてもビクともしなかった袁紹
そもそもの話をすると袁紹がフルボッコされた官渡の戦いは、領地防衛戦争ではなく侵略戦争であり、曹操が勝利を収めたこと自体ミラクルですが、敗北した袁紹からすれば一旦本拠地へ引き上げ、再起を図ればいいだけのこと。
ただ、官渡でのボロ負けとその前後で有能な人材を失い家臣団は分裂気味、しかも各地方では叛乱が多発…、この時点で袁家終了~♪
かと思いきや袁紹の胸には再起の炎がメラメラと燃え盛っており、家臣団を再び統括し直すと、各地で起こった叛乱をチャッチャと鎮圧してしまうのです。
あまりの手際の良さに、勢いづいているはずの曹操も手が出せず、「袁紹の生きてるうちは無理かも…」とと考えたのか、袁紹の存命中は河北に侵攻しなかったほどです。
老骨に鞭打ち過ぎ?!袁紹に死因は「過労死」かも!
袁紹が病没したのは202年7月、前半生がはっきりしないため推測になりますが、彼の没年齢は「48歳」辺りとみられています。三国時代当時の平均寿命は50歳辺り、戦での討ち死にを除いた場合、48歳という袁紹の没年齢は「若すぎる死」とは言えません。
そして、ライバル曹操との世紀の一大決戦に望んだ時の袁紹は推定46歳、当時の価値観で考えれば、既に第一線を退いてもおかしくない「おじいちゃん」です。官渡での大敗で本当に気落ちして次世代に家督を譲っていれば、もっと長生きしたかもしれません。
しかし、彼のメンタルは弱いどころかむしろ強靭、大敗を喫しても決して萎えず、事態収拾に奔走した結果健康を害しこの世を去った…。つまり、今風に言うと年甲斐もなく一人で働きまくった末の「過労死」こそ、実は袁紹の死因だったのではないでしょうか。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
袁紹は生前後継者を決めていなかったため、彼の死後長男・袁譚派と三男・袁尚派による苛烈な相続争いが勃発し、その間隙を曹操に突かれ、袁家は滅亡の憂き目にあうことになります。
死因になったかどうかはともかく、最後までワンマンを貫いたことこそ、袁紹の華麗なる人生において、最大の失敗だったと言えるでしょう。
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