「孫子曰く――彼を知り己を知れば百戦して殆うからず!」 こんな口上、ばっちりぴったりはまるシチュエーションでビシッと決めてみたいものですねぇ。
さてここで出てくる孫子、簡単に言うと兵法書です。 風林火山で有名な武田信玄も、この孫子を愛読していたとか。 この孫子は孫武という人物が記したものとされていますが、では魏武注孫子とは? 今回はこちらを詳しく説明していきたいと思います。
この記事の目次
孫子曰く……の、孫子とは?
さて繰り返しになりますが、孫子とは「孫武」という人物の作とされる兵法書です。 紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立した書とされ、多くの軍事家がこの書を参考にし、愛読してきました。 前述したように、日本では武田信玄がこの孫子を愛読していたとされています。 しかしその全てが「こうしたら戦争に勝てるよ!」という教えではありません。
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十三篇からなる、孫子の概要
孫子は十三篇からできています。 ざっと解説すると 「計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」 「九変篇」「行軍篇」「地形篇」「九地篇」「火攻篇」「用間篇」 の十三編です。 この内、計篇は「戦争を始める前に考えなければならないこと」をまとめたものであり、作戦篇は「戦争の準備のために必要なこと」をまとめたもの、そして謀攻篇は「戦わずして勝つ」方法をまとめてあります。 孫子はあくまで戦争は避けるべきことであり、戦わずして勝つということを重視していたことが分かります。 因みに地形篇は三国志ファンには一部では人気かもしれませんね。 登山とかで。
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1972年、竹簡孫子の発見
ここで少し触れておきたいのが、竹簡孫子です。 この竹簡孫子は1972年に、中国山東省臨沂県銀雀山にある前漢時代の墓から出土した竹簡写本です。 孫武によるとされる「孫子」と内容がほぼ合致したため、竹簡孫子と呼ばれています。 竹簡とは紙がまだ貴重だった時代に、竹の札に記されて作られた写本です。 では、この竹簡写本が見つかるまで、一般的に言われる「孫子」とはどういうものだったのか? そこで出てくるのが魏武注孫子です。
「魏武」「注」「孫子」とは
ここで登場するのが、魏の曹操。 曹操も孫子の愛読者だったのですが、曹操の凄い所はこの孫子を整理し、分かりやすくまとめ、注釈まで付けたということ。 そう「魏武注孫子」というのは曹操の諡号である「魏武帝」によって「注釈」を付けられた「孫子」ということなのです。 これが主に現代の私たちが孫子として読んでいる、要点に絞り、分かりやすく解説されている孫子なのです。 改めて曹操って凄いですね!
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曹操は孫子を削ったのか?否か?
さてここで少し大きな疑問が残ります。 孫子は十三篇からなる、と言いましたが、これ自体が曹操によって削られたものではないか、編纂されたものではないかというものです。 その理由として「漢書」の芸文志には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」という記録があります。 これを見るとそもそも孫子は八十二篇あり、図解されたものがさらに九巻分あったということになりますね。 曹操はこれらを読みやすくまとめてくれたのか、それとももっと別の孫子があるのか、そもそも「孫武」はいなかったのでは……と様々な議論がされていますが、結論は出ていません。
曹操はどうして孫子をまとめたのか
少なくとも、曹操が読みやすくまとめ、注釈を付けた、というのははっきりしているとすると、もう一つの疑問点が生まれます。 曹操はどうして、孫子をまとめ、注釈をつけたのか、ということです。 一説によると袁紹との戦いの最中でもこの注釈付け作業をしていたと言いますが、どうしてそこまで孫子にこだわったのでしょうか。 ただ孫子が好きだから?いいえ、そこには曹操の思いやりが隠されていたのです……!
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やさしい魏王様
三国志演義には、曹操が孫子を真似て作った兵法書「孟徳新書」というものが出てきます。 まあ三国志演義でのこの孟徳新書の扱いは全くと言っていいほど良くないのですけれども。 この孟徳新書、実は「魏略」にも出てきます。
曹操は「兵書接要」という兵法書を作り、これを配下の将兵に配っていたため、彼らは曹操の留守でもそれに従って行動ができた、これこそ魏の強さの一因、というのですが、これこそが孟徳新書だったとされています。 曹操が配下のために孟徳新書を作成したとするならば、曹操が天下の兵法書、孫子に注釈を付けたのも、元々は部下たちから「読みにくい」と言われたからかもしれません。 そういう思いやりが巡り巡って、現代の私たちが孫子に親しみことになる一因となっていると考えると、それはとても素敵で優しい話なのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
有難いお話でも、重要なお話でも。 そもそも読みにくい、分かりにくい、伝わらないでは意味はありません。 賢い人は話を簡単に説明できる、とは良く言ったものではないでしょうか。 孟徳新書、兵書接要のことを鑑みると、曹操の孫子の注釈も何らかの意味があったのではないかと思いました。
そしてそこから考えると、曹操は自分がいなくなっても大丈夫な、そんな国作りを目指していたのかもしれません。 そうすると魏武注孫子は曹操の軍略家としての才能だけでなく、未来を見据えた政治家としての才覚から行われた行動だったのかもしれませんね。
どぼーん。
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