夷陵の戦いは三国志の中でも壮絶な戦いの一つです。
蜀の終焉をひしひしと感じる重要なシーンであり、数多くの武将たちが戦死します。しかしここで戦死する武将たちには、三国志の正史と演義でかなり違いがあります。
今回はその中の一人でもある、呉の武将甘寧と夷陵の戦いを見ていきましょう。
呉の武将甘寧に至るまで
甘寧は若い頃、現代で言う処の「不良」でした。同じ不良たちを集めて大将として行動して、時は流れに流れて甘寧自身は30代も半ば。
そろそろしっかりしようと思って向かったのが荊州の劉表。しかし重用されずにその劉表の部下の江夏太守・黄祖の元に向かいます。ですがそこでも扱いが悪く、色々あって孫権の元でその武勇を奮うことになります。
甘寧は気性が激しく、他の武将たちと衝突することも多かったのですが、それでも呉のために最終的には理解しあって何とか上手くやっていったようです。そしてまた時が流れて、運命の夷陵の戦いがやってきます。
三国志演義では無理を押して出陣
三国志演義では、夷陵の戦いで甘寧は既に病床の身ですが、呉のために無理を押して出陣します。根無し草だった自分を受け入れてくれた、そしてその身分まで引き立ててくれた孫権のために、蜀との激しい戦いに身を置きます。
病の身でありながらも壮絶な戦いを繰り広げますが、蜀の援軍沙摩柯の矢を受け倒れ、孫呉の勝利を最後まで見届けること叶わず、この世を去ります。討ち死にのような形ではありますが、病床の身を押して国のために戦い戦場で散ったその姿は、どこまでも武人らしく晴れやかなものです。しかしこれが正史になると、少々違ってきます。
対して正史では…甘寧は出陣していない?
では正史の甘寧はどうなっているかというと、まず夷陵の戦いには出陣していません。そしてもう少し言うなら、正史での甘寧の没年は記載されていないのです。しかし呉の他の武将である孫皎伝や潘璋伝、丁奉伝の記述から多少は読み取ることができて、どうやら217年までは生存しているようです。そして219年に行われた関羽討伐戦の時点では既に戦陣に名前が見られないようです。
なのでこの時点で甘寧は既に亡くなっている、もしくは病床の身で戦には出られなくなっている状態にあると思われます。夷陵の戦いは221年に始まりますから、やはり甘寧は夷陵の戦い出ることはできなかったのでしょう。正史と演義では武将の扱いだけでなくその死など色々な違いがありますが、甘寧もその違いがある人物の一人なのです。
蜀にとってターニングポイントである夷陵の戦いを彩る
正史に比べて演義の方は良く「蜀寄りに書かれている」なんて言われています。しかし甘寧の演義での夷陵の戦いでの討ち死には、決して扱いを悪くしたものではないと思います。
夷陵の戦いは蜀にとってある意味とても大切な戦い、その中で名前も知らないような武将が蜀の援軍に打ち取られたとあっては、少し盛り上がりに欠けますよね。そこで呉でも名のある、そして勇猛果敢な武将である甘寧が打ち取られる、しかも病の身で戦に出るという忠義心を表しながら…それは、夷陵の戦いを彩る大切な人物として書かれたのではないかと筆者は思いますね。
ただ華を添えると言っても名もしれない武将が討ち死にしたと言ってもそこにドラマを感じる人は少ないでしょう。呉の甘寧という偉大な武将だからこそ、夷陵の戦いの華々しさと苛烈さを表せる人間として相応しかったのではないでしょうか。
三国志ライター センの独り言
三国志演義での夷陵の戦いでの甘寧は、無理をして呉と孫権のために戦い、壮絶な討ち死にをしてしまう武将として描かれています。対して正史を見ると既に病死をしているという、正史と演義の違いを色濃く見ることができる武将の一人です。
このように武将たちの扱いが違うのが正史と演義の違いの面白さ。ぜひ皆さんも三国志演義、そして正史を見比べながらその違いを見つけて見て下さいね。
参考:正史 三国志 呉書(ちくま学芸文庫)
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