夷陵の戦いでは、呉と蜀が戦い、そして蜀が敗北します。その後、見ているのが辛くなってくるほどに蜀は衰退の一途を辿っていくことになっていきます。今回はその夷陵の戦いでの敗北がどれだけ蜀のその後に影響を与えたのか、それを見ていきたいと思います。
戦死した蜀の未来を担う若者たち
夷陵の戦いでは指揮官を任された馮習だけでなく、白眉と呼ばれた馬良のような優秀な将軍が7名ほど戦死しています。
またそれ以外にも黄権を始めとした6名が呉に降伏しています。将軍が戦死するというのはほぼその部隊は壊滅状態なわけですから、名が残っていない一般兵は尋常ではない数が死んでいることが推察されます。
そしてここで戦死した武将たちは歴史的に、名前を知られていない武将が多くいます。それはその武将たちの多くがここから活躍するはずだった蜀の未来を担う武将たちだった、つまり後任を失ったのですから、今後を任せられる武将たちがいなくなってしまったことにも繋がります。人的被害は色々な面からも大きすぎると言えるでしょう。
荊州を完全に失う
蜀は夷陵の戦いの前の、樊城の戦いで関羽を失いました。一般的にはここで関羽を打ち取られたから夷陵の戦いに踏み切ったと言われていますが、失ったのは関羽だけではありません。関羽がいた荊州の土地もまた、失っています。この荊州は蜀にとっても呉にとっても重要な土地で、三国志の中心とも言える場所に存在する大きな土地です。
劉備の拠点とも言える蜀の土地というのは山が多く人が住みにくい、しかも平地でないから守りやすいけれど戦いに行きにくい狭い土地。夷陵の戦いに負けたことでこの荊州を奪還することは不可能になりました。これから天下を統一するために魏や呉と戦うためにも、人々を住まわせるためにも重要な荊州の土地を失ったのは大きな痛手だったのです。
劉備は文字通り、全てを失った
人も、土地も、戦争には食料やお金もかかるのでもっと多くの物資を劉備は夷陵の戦いで失ってしまったのです。そしてこれから三国を統一するという最大の目標も失ってしまいました。
しかも劉備の年齢はこの時、60近く。ここまで劉備は数多くの戦を負け、しかしそれでも再び立ち直って、立ち上がってきました。そこには若さがあり、支えてくれる仲間たちがいて、目標という輝くような未来があったのです。ですがそれは全て、この夷陵の戦いで潰えてしまいました。劉備は全てを失ったのです。
言ってしまうと定年退職した後の退職金を全て株に入れ込んでしまって全部失ったと言えばいいでしょうか。始めてのボーナスをつぎ込むのとはダメージが違います。その喪失感と目の前が真っ暗になる感じは、決して味わいたくはないけれど同情してしまいそうになるほどのダメージだったでしょう。これこそが、夷陵の戦いが蜀に与えた最大の影響だと筆者は思います。
皮肉にも「三国」が完全にできあがった時
因みにここで(厳密に言うとこの少し後で)、三国志の「三国」が出来上がります。魏の曹操の後を継いだ曹丕が禅定により帝位に付き魏王となり、対抗して劉備が漢中王を名乗り、そして呉の孫権が呉王を名乗って三国が出来上がるのです。三国志と言われているのに、その英雄たちが殆どいなくなってしまってから三国鼎立はなされるのです。そう考えると少し皮肉な名前とも聞こえますね。
キツイことを言うようですが、やはり劉備が起こしてしまった夷陵の戦い、そしてその夷陵の戦いが蜀の後世に与えてしまった影響は計り知れないことだったと思います。そして劉備の夷陵での敗北は結果的には魏から呉を離反させ、三国鼎立にも影響を与えた戦いとも言えるでしょう。
三国志ライター センの独り言
こうしてみると夷陵の戦いというのは、三国志の中でも大きな影響のある戦いであったことが分かります。何よりも蜀に与えてしまった影響も大きいのですが、三国鼎立にも、そして魏と呉にも大きな影響のあった戦いであると思います。今確かに歴史が動いた、そんな言葉が浮かんで儚く消えてしまうような、英傑たちの今までと今後を思わせる、三国志でも終盤の戦い、夷陵の戦い。ぜひそんなイメージを持ちながら、三国に思いを馳せてもう一度夷陵の戦いを振り返ってみて下さいね。
参考:正史 三国志 呉書(ちくま学芸文庫)
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