中国史を勉強している人の多くが躓きを覚えるのは五胡十六国時代なのではないでしょうか?
西晋滅亡以降中国大陸が南北に分裂するだけでもカオスだというのに、華北の方では異民族たちがわちゃわちゃと…。もうお腹いっぱいですよね。せっかく晋が天下統一を果たしたというのに、一体なぜこんなことになってしまったのか…。実はその種は三国時代にはまかれていたようですよ…?
この記事の目次
五胡十六国時代とは
(画像:西晋時代の北方遊牧民族の領域Wikipedia)
五胡十六国時代という時代の名称は匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの異民族と北魏の崔鴻という人物が著した『十六国春秋』という書物をもとに付けられたものです。西晋が滅亡した後、漢民族は南に逃げて東晋王朝を立てましたが、漢民族の力が及ばなくなった華北では5つの異民族たちによって「ヒャッハー!俺らも何か王朝つくっちゃおうぜ!」というフィーバーが巻き起こり、王朝が次々に乱立する事態が発生します。
匈奴は前趙・夏・北涼、
鮮卑は前燕・後燕・南涼・西秦、
羯は後趙、
氐は成漢・前秦・後涼、
羌は後秦という王朝を次々に立てました。
…あれ?数えてみると12しかありませんね。実は、異民族だけではなく、漢民族も頑張って4つの王朝を立てています。前涼・冉魏・西涼・北燕です。五胡十六国時代6つの民族がしのぎを削っていた時代だったというわけです。
晋の政治が腐敗して反乱が起こった挙句異民族がヒャッハー!
しかし、そもそもなぜ西晋王朝は倒れてしまったのでしょうか?
実は、天下統一を果たした後の司馬炎は安心しきってしまったのか、とんでもないダラ男に変身。女と遊んでばかりで政治を蔑ろにしてしまうようになってしまいます。更に、司馬炎の次に即位した恵帝・司馬衷も皇太后・楊芷の父親や皇后の賈南風の言いなり。
そんなことで政治がうまくまわるはずもなく、諸王の怒りが爆発し、八王の乱が巻き起こってしまいます。彼らは異民族を傭兵として活用し激しく争ったのですが、もはや晋は国の体裁を保つことも難しい状況に。その様子をよく見ていた異民族たちは、「これはチャンスだ!」と立ち上がります。
中でも力を持ったのが匈奴の長・劉淵です。
劉淵は漢王朝の末裔と自称し、漢(のちの前趙)を建国。その結果、せっかく八王の乱が落ち着いてきたかと思ったのに、更なる内乱・永嘉の乱が勃発してしまったのでした。最終的に八王の乱の最中にちゃっかり皇帝の位についていた孝愍帝・司馬鄴が匈奴が立てた漢に降伏したことにより五胡十六国時代が幕を開けたのです。
そもそもの原因は三国時代のあの人の「おいでよ!異民族の町」
異民族の傭兵を活用したことがかえって仇となってしまった西晋王朝。しかし、彼らが軽々しく異民族を傭兵として雇ったことにはある理由があったのです。実は、その当時異民族は西晋の領土の周辺に住まわされていました。司馬氏が呼び込んだのではありません。
三国時代に曹操や曹丕がちゃっかり「異民族はこのあたりに住んで~!」と移住させていたのです。晋が魏にとって代わっても周辺に異民族がいる状況は変わらず、むしろ当たり前の存在、隣人となっており、友好関係を築けていたそうな。しかし、西晋の人々もそんな彼らがまさか牙を剥いてくるとは思っていなかったでしょうし、曹操や曹丕もそんなことは想定していなかったのではないでしょうか…。
中華再統一後も実質異民族王朝が続く…
結局、五胡十六国時代は鮮卑の王朝・北魏による華北統一で幕を閉じます。その後、南北朝時代を経て隋が中華の再統一を果たすのですが、隋の皇帝として君臨した楊氏も鮮卑系、その後に立てられた唐の皇帝・李氏も鮮卑系らしいので、実質的には異民族王朝が続くことになったようです。
三国志ライターchopsticksの独り言
異民族たちがしのぎを削った五胡十六国時代はやっぱりカオスですね。しかし、この時代が訪れる原因をつくったのが三国時代の曹操や曹丕だったというのはなんだかおかしくて笑ってしまいます。もしも曹操や曹丕が異民族を移住させていなかったら中国史はもう少しだけ簡単になっていたかもしれませんね。
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