魏の名将としてその名を知られた楽進。楽進は多くの戦場で常に激戦で戦い、勝利に貢献してきましたが、病には勝つことができずに亡くなってしまいます。楽進の跡は息子である楽綝が継ぐことになりますが、彼は一体どのような人だったのでしょうか。
楽進の跡を継ぐ
楽進は合肥の戦いから三年後、病に体を蝕まれてしまい亡くなってしまいます。さて楽進には楽綝という息子がいました。正史三国志によれば楽綝は剛毅果断で父親に性格がクリソツで、楽進が亡くなると彼が楽進の跡を継ぐことになります。
揚州刺史に昇進
楽綝は父・楽進の跡を継ぎます。楽綝はその後着実に仕事をこなしていき功績を残していきますが、彼の実績の中で一番大きなものは毌丘倹と文欽の反乱時に功績を上げた事です。
毌丘倹と文欽は魏の政権で権力を握っていた司馬師に怒りを感じ、反乱を起こします。司馬師は毌丘倹と文欽が反乱を起こすと自ら軍勢を率いて反乱軍討伐を開始。楽綝はこの反乱軍討伐戦に参加して功績を残すことに成功します。楽綝はこの功績が司馬家に認められることになり、揚州刺史へ昇進することになります。
諸葛誕と同じ場所で仕事をすることに
楽綝は揚州刺史へ就任することになり、寿春へ出向することになります。そして楽綝と同じく毌丘倹と文欽の反乱で功績を上げた諸葛誕も揚州の都督へ就任することになり、彼もまた寿春で都督の仕事を行うことになります。
こうして寿春には揚州刺史になった楽綝と都督になった諸葛誕が同じ場所で仕事をすることになります。正史三国志によれば楽綝と諸葛誕の仲は特段悪くなく、かといって仲が良かったとも記載がないので、仕事上で関わるだけの間柄だったのかもしれません。そして楽綝と諸葛誕の二人が寿春で仕事を行った事が楽綝にとって禍になってしまうのです。
疑心暗鬼になった諸葛誕
諸葛誕は司馬家に反乱を起こした王凌や毌丘倹らが次々と滅亡したことで司馬家に対して疑心を抱くようになります。また諸葛誕は仲の良かった夏侯玄が処刑されてしまったことで、自分にも災いが降りかかってくるのではないかと戦々恐々しながら日々を過ごしてきました。
そんな中、諸葛誕は魏の中央政権から「昇進させてあげるから中央へ戻ってきなさい」との命令を受けます。諸葛誕はこの命令を受け(このまま中央へ行けば殺されてしまうのではないか)との疑念を抱き司馬家へ反乱を起こす決意を固めるのでした。そして諸葛誕は反乱を起こす準備として、寿春にいる楽綝を殺害する計画を立てて実行へ移すことにします。
悲惨な最期を迎えた楽綝
楽綝はいつもどおり仕事を行っていると太鼓の音が聞こえてきます。楽綝は気になって外を見てみるとフル武装した軍隊が大勢こちらに向かってきている様子を目にします。楽綝は急いで州の役所の南門を閉じると外から諸葛誕が「俺は司空へ就任することになって寿春を離れるのでここらへんを散歩しているだけだ。どうして門を閉じるのだ」と大声で叫びます。
楽綝は諸葛誕の大声を聞くと急いで東門も閉じることに。諸葛誕は楽綝が東門も閉じてしまったことに激怒し、引き連れてきた兵士を東門をよじ登らせて火を放ちます。楽綝は逃げることをしないで敵兵と戦っていましたが、力尽きて討ち取られてしまいます。楽綝は諸葛誕に対して悪いことをしていないにも関わらず、いきなり攻撃を受けて殺害されてしまう悲惨な最期を迎えてしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
楽綝は楽進に似て剛毅果断な性格であったため、諸葛誕から攻撃を受けると力尽きるまで戦ってしまいます。どうして楽綝は諸葛誕へ降伏しなかったのでしょうか。これはレンの予想ですが、国家へ反逆を企てるような人物に降伏をするの事は彼のプライドが許せなかったのかもしれません。
そのため悲惨な最期を迎えることになります。ですが、もし楽綝が諸葛誕へ偽って降伏して司馬昭率いる討伐軍がやってきてから諸葛誕へ反旗を翻して寿春陥落の手助けをすれば、三国志で彼ももっと大きく取り上げられることになったかもしれません。レンは楽綝には嘘も方便で諸葛誕に降伏し、三国統一まで活躍して欲しかったのですが、みなさんはどのように思いますか。
参考 正史三国志魏書等
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