三国志演義の中で、臥龍と称された隠士の諸葛亮を自分の参謀にするために劉備が三度も諸葛亮の庵を訪問したという「三顧の礼」。三国志演義では最初の二度の訪問はいずれも留守だったような書き方をされています。しかし、三国志演義より前に書かれた「三国志平話」では、諸葛亮ははっきり居留守を使っております。
三国志演義では
まずは三国志演義での三顧の礼を振り返ってみましょう。西暦207年冬、劉備は弟分の関羽と張飛、それと従者らを連れて、諸葛亮が住むという隆中をおとずれました。道中、「南陽に隠者あり」なんていうコマーシャルソングを口ずさんでいる農夫に道を尋ねながら、浮き世離れした清らかなたたずまいの庵を訪れ、粗末な柴の門を叩きます(わざわざ隠者っぽくボロい門にしているところがいやらしいです)。一人の童子が門を開けると、劉備は長々と自分の肩書きを告げました。
「漢左将軍、宜城亭侯、領豫州牧、皇叔劉備である。先生にお目にかかるためにわざわざ参った」
すると童子はすげなくこう言いました。「そんな長い名前は覚えられません」これは本当に覚えられなかったのではなく、肩書きにあぐらをかいたような自己紹介を小馬鹿にしたのでしょう。わざと無礼な応対をして訪問者を怒らせてその人物を見極めるという臥龍先生流の人物鑑定法の一端ではないでしょうか。このあたりは過去記事に書きましたのでそちらをご覧頂ければと。
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こうして、劉備の一度目の訪問は門番の童子に門前払いされました。数日後、諸葛亮の在宅を確かめて、劉備は二度目の訪問をしました。しかし家には弟の諸葛均しかおらず、諸葛亮に宛てて天下を憂う志を述べた手紙を書き置いて劉備は退散します。三度目の訪問でやっと諸葛亮に会うことができ、めでたく招聘することができました。
三千人の軍隊で包囲!?三国志平話
三国志演義の三顧の礼も大概おかしいですが、三国志平話はさらに変です。一回目の訪問の部分はこんな一文から始まっています。
中平十三年春三月、皇叔は三千の軍勢と二人の弟分を連れ、まっしぐらに南陽鄧州武蕩山の臥龍崗へ行き、庵の前で馬を下りて庵の中の人が出てくるのを待った。
諸葛亮の庵があった場所としては古隆中と南陽との本家争いがあるのですが、三国志平話は南陽派のようですね。というのはさておき。
「中平十三年」て、のっけからおかしいです。中平という元号は六年までしかありませんし、仮に改元しなかったとすれば、三顧の礼は中平二十四年にあたります。三国志平話は歴史的な正確さをあまり気にせず書かれているようですね。さらにおかしいのは「三千の軍勢」を連れているという点です。怖いですねぇ……。↓こんな感じじゃないですか?「諸葛亮!おまえは完全に包囲されている!無駄な抵抗はやめて庵から出てきなさい!」
諸葛亮の様子
さきほどの一文に続き、諸葛亮の様子が描かれています。
諸葛先生は庵の中で膝に手を置き座っていた。顔はおしろいを塗ったごとく、唇は朱を指したごとくである。
年は三十に満たず、毎日書を読んでいた。
道童(※)が先生にこう告げた。
「庵の前に三千の軍勢がおり、首魁は新野太守・漢の皇叔劉備であると名乗っております」
先生は語らず、道童を近くに呼び耳元に口を寄せ小声で指示を与えた。
(※道童とは道教の修行中の子供、ということは諸葛先生は道士)
誰に遠慮してひそひそ話なんだか?三国志平話は講談や芝居をもとにしてできているそうですが、芝居の台本の名残でしょうか。諸葛亮の容貌の「顔はおしろいを塗ったごとく、唇は朱を指したごとく」は美男子のテンプレ描写ですね。
さて、諸葛亮の指示を受けた童子は庵を出て劉備の前に行き、こう告げました。「先生は昨日長江を下り、八俊の方々との宴会に出かけました」あ、嘘ついた。居留守ですね。三国志演義も居留守くさい気配はありますが、そうとは明記されていません。平話ははっきりと居留守です。これを聞いて、劉備は諸葛亮の庵の塀に次のような詩を書き残して帰って行きました。
【原文】
独跨青鸞何処游 多応仙子会瀛洲
尋君不見空帰去 野草閑花满地愁
【書き下し文】
独り青鸞に跨り何処にか游ぶ 多く仙子に応じて瀛洲に会す
君を尋ねて見えず空しく帰去す 野草閑花 满地の愁
居留守を使われた腹いせに塀に落書きをする狼藉者。しかし三千の軍勢を引き連れていたわりには優雅な狼藉ですね。諸葛亮を仙人に喩えながら、今日はお会いできなくて悲しいですと歌い上げております。
二度目も居留守だが心が動く
二度目の訪問でも、諸葛亮は童子に嘘をつかせて居留守を使いました。すると、劉備はこんどは百文字もの長文の詩を塀に書き付けました。内容は大したものではありませんで、天下が乱れて二十年も戦ってきたけど志を遂げることもかなわず先生にも会えず帰ります、というだけのものです。劉備が帰ったあと、諸葛亮はこのように考えます。
私はいったいどれほどの者で、太守を何度も訪問させているのだろうか。皇叔を見たところ帝王の風采があり、両耳は肩まで垂れ、手をたれれば膝まで届くというお姿だ。また、塀に書かれた詩を見たところ、志のある方のようだ。
「私はいったいどれほどの者で」なんて、らしくないですね。自分を高く売りつけるためにもったいつけて隠棲しているんじゃないんですか。三国志平話の諸葛亮は野心ありのなんちゃって隠士ではなくて、ピュアなガチ隠者だということでしょうか。
三国志平話を見ると、趙雲も諸葛亮も劉備の帝王っぽさにコロリといってしまっているのですが、簡単に “この人こそ帝王となる人だ!”なんて思ってしまうとは、まるで昔の少年漫画のようなノリです。三国志平話の読者層にはそれが分かりやすくてよかったのでしょう。塀に書かれた詩だって、大したこと言っちゃいないんです。志に関する部分は「志心立托する無く 伏して望む英雄の攀らんことを」という一節だけです。内容なんてありません。これに心を動かされる亮さんって一体……。舌先三寸で誰にでもたぶらかされてしまうんじゃないでしょうか。ピュアすぎる。心配です。
三度目の訪問時に明かされるファンタジー設定
三度目の訪問の場面では、諸葛亮に関する仰天情報が書かれております。
諸葛亮はもとは神仙である。
えっ!
小さい頃から学業を修め、長じてはあらゆる書を読み、天地の機に通じ、鬼神にもはかりえぬほどの志をもっていた。風を吹かせ雨を呼び、豆をまいて兵隊とすることができ、剣をふるって川を作り出すこともできた。
おおぅ、妖術使い。三国志演義では、諸葛亮の住む庵は仙人の住処っぽい風雅な雰囲気で描写されており、劉備は三度目の訪問で諸葛亮の家の童子のことを「仙童」と呼んだりしておりますが、諸葛亮のことを仙人だとは一言も書かれておらず、有能で努力家の天才という範疇にとどまっております。三国志平話では、はっきり仙人だと書かれています。ファンタジーですね。
天下三分の計がおかしい
さて、三度もの訪問を受けて劉備に仕える気になった諸葛亮。劉備に向かって天下三分の計を説きます。その時の諸葛亮のせりふは正史三国志や三国志演義とほとんど同じなのですが、せりふの最後をしめくくるはずの「このようにすれば覇業は成り、漢室を興すこともできます」の一文だけが三国志平話にはありません。
三国志平話は水滸伝っぽいアウトローな価値観で描かれているので、漢王室の再興よりも劉備親分の王国を作ってもらうほうが面白いと思ってその一文をカットしたのかもしれませんね。
ちなみに、正史で「覇業」と書かれている箇所が、三国志演義では「大業」と書きかえられています。三国志演義は三国志平話とは対照的にゴリゴリの儒教精神で塗り固められていますので、主人公は「覇業」なんていう武力だよりの方法ではなく「徳」で戦わなくてはならないという発想で、「覇業」を「大業」と書き改めたのでしょう。
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志演義の三顧の礼は知的な雰囲気があり、諸葛亮は門番の童子に劉備の品定めをさせているんじゃないかとか、居留守だとはっきり書かれてはいないけどきっと居留守だろうとか想像しながら両者の駆け引きを楽しむことができます。
ところが、三国志平話ははっきり居留守と書かれていて分かりやすすぎますし、諸葛亮が “あの方には帝王の相があるのに二回も訪問させちゃってボク、ボク……”と動揺するピュアな仙人であったりして、知的な要素はあまりありません。子供向けの漫画や紙芝居を見ているような気分になります。三国志平話はきっと気軽な娯楽作品なんだろうなぁと思いました。
余談:
賢いはずなのに人のビジュアルや思わせぶりな言葉に簡単にひっかかってしまう三国志平話のピュアな亮さん。このキャラを女子化してアニメ化したら可愛いだろうなという妄想が止まりません。「ドラえもん」で大型台風と戦って消えてしまう台風のフー子と、五丈原で最期まで頑張っちゃう亮子ちゃんの姿がダブって見えます……。
【参考文献】
翻訳本:『三国志平話』二階堂善弘/中川諭 訳注 株式会社光栄 1999年3月5日
原文:维基文库 自由读书馆 全相平话/14 三国志评话巻上(インターネット)
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