劉備が諸葛亮を自分の幕僚に加えるために、諸葛亮の庵を三度も訪問したという三顧の礼。三国志演義では、最初の二度の訪問では諸葛亮が留守だったことになっています。一度目の訪問はなんの準備もなく出かけたので留守でもしかたがありませんが、二度目には劉備は諸葛亮の在宅を確認してから出かけています。
庵の門番に「先生はご在宅か」とたずねると、「部屋で読書中です」との返事。なのに、中へ入ってみると諸葛亮はいませんでした。これはもしや、居留守を使って隠れたのではないでしょうか?ということで、三国志演義の諸葛亮の居留守説を立ててみます。
※本稿で扱うのは三国志演義の内容です
一度目の訪問からして疑わしい
演義の三顧の礼は、一度目の訪問からして怪しいです。訪問の前日に、劉備は水鏡先生こと司馬徽に会っています。司馬徽はかつて劉備に龐統と諸葛亮をオススメしていた人物。再び劉備の前にふらりと現れて、「諸葛亮は周王朝八百年を興すのに貢献した姜子牙や漢王朝四百年を興すのに貢献した張良に比肩する人材である」と激オシ猛プッシュして帰りました。
司馬徽は諸葛亮の恩人・龐徳公に兄事しており、隠士仲間の間では諸葛亮とはちょっと薄い叔父と甥くらいの間柄ですので、劉備に諸葛亮を猛プッシュした後はおそらく諸葛亮に「さっき劉備に君のことを激オシしといたから」と一報入れたことでしょう。だとすれば、諸葛亮は近々劉備が来るだろうと自宅にスタンバイするはずです。劉備は司馬徽のプッシュを受けた翌日に諸葛亮を訪問していますから、諸葛亮は在宅していたのではないでしょうか。
劉備に会いたくないから逃げ出したという可能性は?
司馬徽から「近々劉備が来るよ」と言われたからこそ留守だったとも考えられますね。もしも諸葛亮が劉備に絶対会いたくないと思っていれば、劉備が来る前に逃げ出すところでしょう。会いたくないから外出した。一度目の留守は本当に留守だった。こう結論付けることもできそうです。しかし、会いたくなかったということはないはずです。それは諸葛亮が作ったという歌を見れば分かります。
蒼天は円蓋のごとく 陸地は棋局のごとし
世人は黒白に分かれ 往来して栄辱を争う
栄える者は自ら安安たり 辱めらるる者は定めて碌々たらん
南陽に隠者あり 高眠して臥せども足らず
これは劉備が諸葛亮の庵へ行く途中に庵の近所の農夫が歌っていたものです。意味としては、天下の情勢を碁に例えながら、“不利な情勢にいる人は大変ですね。手助けできる隠者がここにいますよ。私はいつまでも隠遁していたってかまいませんがね”と言っております。不利な情勢にいる人とは、劉備のことを言っているとしか思えません。あんたを助けてやってもいいぜ、俺を起こしに来いや、というお誘いソングです。諸葛亮は劉備に会ってもいいと思っていました。
一度目の訪問が居留守くさい理由
司馬徽から知らせを受けたなら、劉備に興味のあった諸葛亮は自宅に待機していたはずです。しかし、劉備が庵に到着し、門番に「先生にお目にかかりたい」と言うと、門番は「先生は今朝ほど外出しました」と答えます。
劉備「どちらへ行かれたか。いつ頃戻られるか」
門番「どこへ行くとも定まっておりません。三日のこともあれば十日以上のこともあります」
諸葛亮はこういう不羈な外出の仕方をするキャラのようです。
※不羈:自由気ままで他人に束縛されない事
ところで、二度目の訪問の時には「先生はご在宅か」と聞かれた門番は「部屋で読書中です」と答えるのですが、その時は諸葛亮は不在で弟の諸葛均だけが在宅しており、門番の返事は “弟のほうの先生なら在宅している”という意味にとれます。だとるすと、門番は諸葛亮か諸葛均のいずれかがいれば「在宅」と返事するはずです。とすると、一度目の訪問時に「今朝ほど外出しました」というのは、諸葛亮と諸葛均が二人そろって今朝外出してしまったという意味になります。しかし、これはおかしいです。
どこへ行くかもいつ戻るかも分からない外出に、二人そろって出かけるでしょうか。庵のあるじは諸葛兄弟なのに、女子供や下人だけを残して不羈の外出をするとは非常識です。これはやっぱり居留守くさいです。門番に、近々劉備が来るから留守だって言っとけよ、と指示してあったのではないでしょうか。
居留守を使う意味
諸葛亮が劉備に興味を持ちながら居留守を使ったとすれば、それは何のためでしょうか。軽々しく会うよりも、何度か無駄足を踏ませてじらして自分を高く売るためではないでしょうか。幕僚として劉備に仕えることを考えた場合、採用活動の時にお手軽な奴だと思われてしまうとその後も大事にしてもらえないので、相手が自分を一番欲しがっている時にさんざん焦らしてもったいつけて高く売りつけて、採用された後も自分のことを下にも置かず厚遇せざるを得ないような関係を築きたかったのだろうと思います。
二度目の訪問もきっと居留守!
一度目の訪問は居留守くさかったですが、二度目はもっとくさいです。一度目は電撃訪問で失敗した劉備、二度目には諸葛亮の在宅を確認してから訪問しています。劉備が門番に「先生はご在宅か」と聞いたら、門番は「部屋で読書中です」と答えます。しかし中には諸葛均しかいませんでした。
門番は諸葛亮か諸葛均かどっちかがいればいいんだろうと思って「部屋で読書中」と言ったのかもしれませんが、普通は「大先生は外出中ですが小先生は部屋で読書中です」と言いますよね。門番というものは主人の交友関係などは把握しているものですから、司馬徽が劉備に諸葛亮を推薦したことぐらい知っているはずです。門番の「部屋で読書中」という返事は、諸葛亮のことを言ったのだと思います。
しかし諸葛亮は、“ちょっと待て、今日は劉備に会うのはまだ早い”と思ってダッシュでどこかに隠れたのではないでしょうか。そして、弟に応対させて、やりとりを盗み聞きしながら劉備の人物を見極めようとでも考えたのだと思います。劉備をじらす効果と、劉備を観察する機会を得られること。この居留守は一挙両得です。また、この時に弟・諸葛均がうたった歌から察するに、諸葛均も劉備に仕えたい気があったようですので、諸葛亮は自分が劉備の知遇を得る前に弟にチャンスを与えたのかもしれません。
“劉備は俺のことは無視できないはずだが弟のことは分からん。先に弟を掴ませておけば二人まとめてご採用だ”と考えたのではないでしょうか。なお、諸葛均の歌は、自分のことを鳳にたとえながら“いい主がいればボクは仕えるよ”とうたったものです。詳しくは他の記事で書きましたのでご興味があればそちらもぜひ。
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志演義の三顧の礼は、予定調和のニオイがぷんぷんします。司馬徽が劉備の前に出没し始めた時から、諸葛亮は劉備に仕えるつもりだったのではないでしょうか。さらに言えば、司馬徽と諸葛亮があらかじめ“劉備は君が飛躍するためにはいい道具じゃないか?”
“僕もそう思っているんですよ。言いなりにさせるためにどんな小芝居を打とうかと考えているところです”とでも打ち合わせをしてから、司馬徽が劉備に諸葛亮の情報をもたらしに行ったのかもしれません。司馬徽と劉備の初めての出会いも、司馬徽は劉備がその日そのあたりを通ると読んだうえで下僕を哨戒させて劉備を確保したように見える描写です。司馬徽は人物鑑定家として名をなしている人ですから、劉備がいつどこでどんな目に遭うかぐらい分かる情報力を持っていたことでしょう。
お手元に三国志演義がありましたら、司馬徽と劉備の初対面あたりから三顧の礼をお読みになってみて下さい。疑えば疑うほどニヤリとできて、きっと面白いと思います!
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