ボキッ!うぉ!痛ででででで…これ絶対足いった!足の骨折れた!
そんなとき、現代の私たちはすぐに病院で診てもらい、足を固定して鎮痛剤を飲んで…というふうに安心して適切な治療を受けることができます。
でも、三国時代には病院なんてありませんし、医者なんてそんなにたくさんいませんでした。三国時代の医者といえば麻酔を使いこなし、外科手術まで行っていたという華佗が有名ですが、彼のような名医は2人といない存在。
それに、彼に診てもらえる人物など、幸運な一握りしかいませんでした。では、三国時代に生きた人々はどのようにしてその怪我を治していたのでしょうか?
実は皆さん、それぞれ自分なりに考えて今では考えられないとんでもない方法によってそのお体を治しておられたようです…。
やっぱり戦場に戻りたい!…留賛、足を切る
戦に臨んで大声で叫び、そして大声で歌い、更には敵に必ず勝利するというパンクでロックなことで有名な呉の猛将・留賛。彼は若かりし頃、黄巾賊の首領・呉桓を討ち取ったことで名を上げますが、その際に自らも足に大けがを負ってしまいました。その後、傷を癒すことに専念した留賛ですが、足は曲げることができないままになって歩くことができなくなり、戦場に復帰することは絶望的な状態でした。
そこで、前線で活躍できなくとも、知略の方で何か貢献できれば…と考えて兵法書や歴史書を読んで勉強することにします。文字を追えば追うほど、胸の高鳴りを覚える留賛…。めくるめく群像たちの雄姿に心を高ぶらせた留賛は、居ても立ってもいられずに親族を呼び集めました。
そして、自らが感動した英雄たちのエピソードを語った後、次のように決意表明します。「このまま足が動かないままでいるのでは、既に死んでいるようなものだ。そういうわけだから、今から足の筋を切ってこの足を自由に曲げ伸ばしできるようにしようと思う。」
いやいやいやいやいやいや!何言ってんの!?全力で留賛をとめる親族たち。そりゃあそうですよね。医療に関して何の知識もないド素人が自分で自分の体を治すとか言い出して、しかもその方法が足の筋を自分で切るとかいうどう考えてもおかしなものだったわけですから…。そんな親族たちの制止を振り切り、自分の動かなくなった足の筋に刃物を突き立てるパンク・留賛。しかし、当然ですがやっぱり痛い!ああああああ!あまりの激痛に留賛も気絶。
留賛が白目をむいてひっくり返ったことに驚きつつも、留賛が気絶している間中親族たちはずっと留賛の足を引き延ばしてくれていました。これが功を奏してか、少し転びやすいものの留賛は無事に歩くことができるようになりました。そして、このことが評価されて留賛は孫権に仕えるようになったのでした。
やっぱりあなたには厳しかった…周瑜
才子多病の言葉がぴったりの呉の智将・周瑜。『三国志演義』では赤壁の戦いに臨むにあたって、その風向きについて悩みすぎて吐血するほど病んでいますね。
そんな彼も豪快ともいえる荒療治に挑んだことがありました。赤壁の戦いで曹操を追い詰めた周瑜はその勢いに乗じて南郡に攻め入ります。
怒涛の勢いで攻め入ってきた呉軍を迎え撃ったのは曹仁。しかし、あっさりと南郡城から逃げ出してしまいます。周瑜はそのまま勇んで南郡城に入城。この城を足掛かりにして魏の都に迫ろうと考えていたところ…
うぉおっ!?ドザドザドザッあちらこちらで悲鳴と鈍い音が。なんと味方が落とし穴に落ちていくではありませんか!
そして、それに驚く暇も与えないかのように城壁の上から矢の雨が降り注いできます。曹仁があっさり城を空けたのは罠だったのです。
周瑜もわき腹に矢を受けて馬から落ちてしまいました。それでも、周瑜は矢を引き抜いて命からがら逃げ延びます。
ところが、傷の具合が思わしくありません。それもそのはず、周瑜に刺さった矢には毒が塗られており、その上、矢じりがまだ体の中に残っていたのです。
そこで軍医は、周瑜に手術を受けるようにすすめます。それは、あの関羽も受けたという、傷口を切り開いて矢じりを取り出すという手術でした。もちろん、麻酔なしで。
手術の際、飄々と碁を打っていたという関羽将軍。しかし、繊細な美青年・周瑜には厳しかったようです…。
文字通り阿鼻叫喚の荒療治が行われたものの、何とか手術は成功しました。術後の周瑜の美しい顔は、涙と鼻水、そして脂汗で大変なことになっていたことでしょう…。
三国志ライターchopsticksの独り言
あれほどの痛みはないと言われる出産も、麻酔によって無痛で済ませることができる時代に生まれた私たちはとても幸せなのだなと実感させられるエピソードでした。
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