留賛(りゅうさん)とはどんな人?自ら足の筋を切断し治療をした呉の英雄

2016年6月27日


 

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留賛

 

 

留賛 (りゅうさん)は、(あざな)は正明(せいめい)で三国志の呉の武将です。中国の後漢時代から三国時代(183~255年)の長き戦の時代を戦い抜いた老将です。三国志に登場する武将ですが、小説の三国志演義ではほとんど出番がありません。しかし、彼の挙げた功績から、並大抵の武将ではないとされています。さらに三国志演義では出番はほぼ無いにもかかわらず、その性格や偉業、奇妙な行動の数々から、彼に関する数多くの伝説が残されております。本記事では、留賛(りゅうさん)についてご紹介します。

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若き日の悲劇

戦え于禁㈫01

 

揚州会稽郡長山県出身であった留賛(りゅうさん)は、若き日に郡の役人として勤めていました。当時、中国後漢時代より現われた黄巾賊が略奪の限りを尽くしており、天下が荒れに荒れておりました。そのため、留賛(りゅうさん)は自ら陣頭に立って黄巾賊の鎮圧を行っていました。ある時、黄巾賊の首領である呉桓(ごかん)を討ち取りました。しかし、留賛(りゅうさん)はこの時の戦いで、足に傷を負い、傷が治った後も足が曲がったままになってしまいました。役人として、黄巾賊を成敗していた留賛(りゅうさん)でしたが、怪我で寝たきりとなり、鬱屈した日々が続きました。
 



留賛の伝説その1:自ら足を治療

 

歩けなくなってしまった留賛(りゅうさん)は、ほぼ寝たきりの生活を過ごしていました。留賛(りゅうさん)は兵法書や歴史書を読むのを好み、寝たきりではありましたが、充実した日々ではありました。しかし、書を読むうちに、立つことすらままならぬ自分と偉業を成し遂げた過去の英雄達を比較し、それを恥じるようになりました。そしてついに留賛(りゅうさん)は、家族を集めてこう言いました。

 

留賛(りゅうさん)「わしの足はこのままでは曲がったままで動かない、これでは悪戯に無為な日々を過ごすのみだ。せめて足を伸ばして歩けるようになろうと思う。足が曲がったままなのは、足の筋のせいだ。今から足の筋を切断して伸ばせるようにするから、伸ばした状態で皆で動かないように固定するのだ。それで死んでしまってもその程度の男だったということだ。」

 

家族はこの申し出に皆反対します。何とか思いとどまらせようとする家族の話に耳を貸さず、留賛(りゅうさん)は、自ら足の筋を切断してしまいました。直後、留賛(りゅうさん)は激痛のために気絶してしまい、足からは絶え間なく真っ赤な血が流れ出ました。やむをえず、周囲の家族が彼の足を引き延ばし、止血を施しました。なんとか一命を取り留めた留賛(りゅうさん)は傷が治る頃には、足を引きずるような形ではありますが、無事に歩くことができるようになりました。

 

 

留賛、呉の将となる

遅れて来た孫権 英雄

 

多少手荒な方法ではあったものの、留賛(りゅうさん)はなんとか歩くことができるようになりました。話を聞きつけた凌統(りょうとう)は、留賛(りゅうさん)に興味を持ち、その人物を見極めるべく自身のもとに招きました。この時に凌統(りょうとう)は留賛(りゅうさん)を高く評価し、孫権(そんけん)に推挙しました。その後、武将となった留賛(りゅうさん)は屯騎校尉に任ぜられました。

 

 

留賛の伝説その2 : その不敗の戦闘スタイルとは!?

 

留賛(りゅうさん)は、武将として戦う時に他には類を見ないほどの独自の戦い方をしていました。その独自の先頭スタイルとは、「歌いながら戦う」というなんとも奇抜なものでした。孫峻伝によると敵軍と相対し合戦となった時には、留賛(りゅうさん)は必ず髪を振り乱しながら空に向かって叫び、そして声を張り上げながら歌いました。さらに、留賛(りゅうさん)の左右の者もこれに応じて歌い、合唱が始まります。合唱が終わった後に敵軍に向かって突き進んでいきます。このような「これってなんか意味あるの?」といわれそうな戦い方ですが、この戦い方で留賛(りゅうさん)は、数々の戦果をあげており、その戦において、敗北は無かったと言われています。留賛(りゅうさん)の有名な戦いには、東興の戦いがあります。

 

 

252年、孫権が死す

孫権

 

252年、孫権の死を聞きつけた魏軍が呉を制圧するために軍勢を差し向けました。留賛(りゅうさん)は、大傅・諸葛恪(しょかつかく)丁奉(ていほう)らと共に、魏軍の迎撃に出ました。丁奉(ていほう)の策により、山岳地帯を通過して川の上流を占拠するべく、留賛(りゅうさん)も上流に向かいました。そこでは、魏の陣営が築かれていましたが、彼らは酒盛りをしている最中であったため、丁奉(ていほう)とともに留賛(りゅうさん)も攻撃をしかけたので、十万の大軍であった魏の軍勢は敗走していきました。この時の功績により、留賛(りゅうさん)は左将軍に昇進しています。

 

 

留賛の伝説その3 : その最後!部下を守るために・・・

 

無敗の留賛(りゅうさん)でしたが、その不敗神話もついに終局を迎えてしまいます・・・。255年、魏で文欽(ぶんきん)らの起こした反乱を聞きつけ、丞相である孫峻(そんしゅん)が左将軍の留賛(りゅうさん)と驃騎将軍の呂拠(りょきょ)を援軍として送り、反乱に乗じて魏を討とうとしました。この折、留賛(りゅうさん)は進軍中に病気に伏せってしまいました。そこで孫峻(そんしゅん)は留賛(りゅうさん)に帰還するよう命じましたが、義軍からの追撃を受けてしまいます。この時、留賛(りゅうさん)は病のため弱りきっており、まともに陣を整えることもできませんでした。また、病のためいつものように声を張り上げて歌うこともできませんでした。敗北を悟った留賛(りゅうさん)は、部下たちに言いました。

 

留賛(りゅうさん) 「わしは戦において一度も敗北したことは無かった。しかし、今では病気でろくに戦えず、逃げられもしない。お前たちだけでも逃げよ。ここを死に場所にして戦っても、何も得られるものはない。」

 

部下たちはこれを聞いても逃げようとはしませんでした。留賛(りゅうさん)が刀を抜いて斬り付けようとすると、ようやく彼らは去っていった。そこへ魏軍が襲ってきて、留賛(りゅうさん)は殺されてしまいました。不敗の武将、留賛(りゅうさん)の生涯は七十三歳で幕を閉じました。

 

 

その生涯と人物

 

留賛(りゅうさん)の性格は、気性が激しい性格であったといわれています。足の筋を切るときも、ほぼ衝動的に切断に踏み切り、家族が止める間もないほどでした。また、孫権(そんけん)に仕えていましたが、時勢、時事的な問題の話となると、いつも正論を相手に突きつけ、相手が孫権(そんけん)であっても真っ向から主張する様は、孫権(そんけん)に頭を抱えさせていたそうです。留賛(りゅうさん)は他人に媚びたり、へつらうようなことは、たとえ相手が自身の主君であろうしませんでした。

 

現代風に言えば、結構頑固というか世渡りはあまりうまくなさそうな人だったようです。加えて、戦闘時には大声で歌を歌い始めるものだから、周りから見たらかなり変人に見えていたかもしれません。「激情」、「頑固」、「発狂」などおかしな三拍子が揃った彼ですが、そんな彼だからこそ、歴史に名を残す偉業をなせたのかもしれません。

 

 

三国志ライターFMの独り言

FM

 

日本人は、なにか「NOと言えないYESマン」なところや「周りに合わせて媚びへつらう」なところ、「周りを気にして目立ったことはしない」(いわゆる恥の文化)ところがあり、留賛(りゅうさん)とは逆の気質ですね。正論ばかりで、時には怒り狂い、最後には発狂なぞ、まともな人のすることではありません。しかし、留賛(りゅうさん)の本質はそこではなかったと思います。激しい気質で衝動的に動いてしまうのは、素直な、ある意味正直者の行動です。

 

正論ばかりで他人にへつらわずに主張できるのは、清廉潔白な正しい人間の姿です。戦闘中に歌うのは、「指揮を上げる」という点では非常に合理的な方法です。実際最後に、部下を逃がしたあたり、「無駄に死ぬことは無い」といかにも合理的なことを述べています。へんな人に見えて、その実、合理的に考えられる素直な人物だったかもしれません。淩統(りょうとう)もそんな彼に直に会ってその人柄で彼を推挙したのでしょう。ただ、素直すぎて奇行が目立ってしまってますが。

 

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呉の武将

 

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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