曹操には多くの夫人がいましたが、晩年にはどんな夫人たちよりも愛された王昭儀という女性がいました。王昭儀はドロドロとした後宮の中でうまく立ち回り、幸せな生涯を送ったといいます。今回は、そんな賢媛・王昭儀をご紹介したいと思います。
寵愛されるも子がいなかった王昭儀
王昭儀の「昭儀」とは、「夫人」や「美人」などの女性の身分の名称です。王昭儀はその聡明さ故か他の夫人よりも多くの愛を曹操から注がれていたのですが、身分が低かったがために他の夫人から見下されていました。しかし、そんな彼女を憐れんでか曹操が夫人よりも高い位である「昭儀」の称号を与えます。
しかし、そんなことをしては女性たちの嫉妬の炎に油を注ぐだけ。「どうせ名ばかりの称号よ!」「成り上がりものの!」このように王昭儀は他の夫人たちからチクチクネチネチ嫌味を言われたことでしょう。そしてその嫌味には「子どももいないくせに」といったものも多く含まれていたはず。彼女は曹操から深く愛されてはいたものの、子どもを授かることができなかったのです。王昭儀はこのことについて顔には出さなかったかもしれませんが心の奥底ではいつも深く悩んでいたことでしょう。
曹幹を養子に迎える
しかし、そんな王昭儀に転機が訪れます。なんと曹操の妾が幼い子を遺して亡くなってしまったのです。その子とは、まだたったの3歳だった曹幹。年老いてから授かった子ということで、曹操が特別可愛がっていた子でもありました。曹操は曹幹の養母として王昭儀をあてがいます。
曹操は王昭儀がかねてより子を欲しがっていたことを知っていたのでしょうし、何より愛する彼女の身分を保障してあげたいと思ったのでしょうね。これは王昭儀にとってまさに棚から牡丹餅。血の繋がりこそありませんが、ようやく息子を手に抱くことができたときの王昭儀の喜びは言い表せないほどのものだったでしょう。
曹丕を猛プッシュしていた王昭儀
しかし、実は王昭儀は子がいなくても自分の地位を安泰なものにするために曹幹を迎える前から様々な努力をしていた様子。王昭儀が曹幹を育てることになる少し前、魏の宮廷内には不穏な空気が漂っていました。曹操の後継者をめぐる争いが激化していたのです。
嫡男である曹丕と文才に長けた曹植との一騎打ちの様相を呈したこの後継者争いですが、多くの臣下や後宮までもを巻き込んでの熾烈な泥仕合が繰り広げられていました。実はこのとき、王昭儀は曹丕が選ばれるように全力で曹操に曹丕を猛プッシュ。曹丕が後継者になれるように全面的にバックアップしていました。
曹植陣営に度重なる嫌がらせを受けて辟易していた曹丕は王昭儀に大きな恩義を感じたことでしょう。このために王昭儀は子どもがいないながらも曹丕から保護されて将来も安泰であったはずですが、養子として曹幹を迎えたことによって後宮での地位を盤石なものすることに成功したのでした。
幼い我が子を想う曹操の遺言
そんな折、曹操が持病をこじらせて床に臥してしまいます。曹操が自身の死期を悟ったとき、曹操は曹丕を枕元に呼び、涙を流しながら次のように語ったそうです。
「曹幹はたった5歳で両親を失おうとしている。曹丕、この子のことをよろしく頼むぞ。」曹丕は恩を受けた王昭儀の養子であり、父の忘れ形見である曹幹を常に傍において可愛がりました。
そんなある日のこと、曹幹が曹丕に「お父様」と呼びかけるという事件が発生。曹丕は幼くして父のいない曹幹が兄である自分を父と呼んだことを大層哀れに思い、「私はお前の父ではなく、兄なのだよ。」と告げて涙を流したと言います。曹丕と曹幹の年は30歳近く離れていましたから、曹幹が曹丕を父親であると勘違いしても仕方のないこと。しかし、もし2人の年がもう少し近かったとしても、曹幹は自分を可愛がってくれる曹丕を父親のように慕ったのではないでしょうか。
曹丕も曹幹の行く末を想う
曹操が亡くなった後、魏の皇帝として即位した曹丕ですが、わずが7年で亡くなってしまいます。曹丕は父がかつて自分に曹幹を託したように、息子の曹叡に曹幹を託します。また、自分が曹操の後継者となるように力を尽くしてくれた王昭儀についても手厚く保護するようにと伝えたそうです。
三国志ライターchopsticksの独り言
女性にとっても生き抜くのが大変な時代で時勢を読んでうまく立ち回り、幸せな生涯を送った王昭儀。そんな彼女に養われた曹幹も早くに両親を亡くしてしまったとはいえ十分に幸せな幼少期をおくることができたのでしょう。
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