漢は途中でアクシデントを挟んだものの400年という長きにわたり続いた王朝でした。その長い長い歴史の中で、漢王室の血筋は脈々と受け継がれていきましたが、その数もどんどん増えていったことから皇族でありながら身分を失った人も多かったよう。
劉備の祖である劉勝の子・劉貞は涿県の陸城亭侯に封じられたものの、皇帝に献上するための規定されていた黄金を用意できず、諸侯の身分を失っています。実は、『三国志』に登場するあの人物も、漢王室の末裔だったのですよ。
劉虞…?誰だそれ?
それは、劉虞。
「ん?劉虞なんて聞いたことがないぞ?」という人も多いでしょう。なぜなら彼はとある大人の事情で『三国志演義』には登場しない人物なのですから。
劉虞は後漢の光武帝の長男・劉彊の末裔です。劉備と同じく厚徳で名を馳せた人物でした。しかし、この徳の高さがある人物の嫉妬に火をつけてしまうのです…。
異民族の心もガッチリ掴む
劉虞ははじめ郯県で木っ端役人として働きました。その後、トントン拍子に出世を重ね、幽州刺史に就任。その頃、幽州の人々は突然現れて物資を奪っていく異民族・烏桓にビクビクしながら暮らしていました。劉虞は民草の平穏を侵す烏桓を武力によって鎮めるようなことはせず、むしろ彼らに慈愛の心を持って接しました。
すると、劉虞の徳に感化された烏桓は略奪行為をやめ、劉虞に朝貢するまでになったのです。これには幽州の人々も感嘆し、ますます劉虞を慕うようになったのでした。劉虞が病気で退官して故郷に帰っても、幽州の人は何か事件が起こると劉虞のところに飛んでいくほど、劉虞に信頼を寄せていたといいます。
再び幽州へ
その後も順調に出世していた劉虞でしたが、あることにより幽州に派遣されます。あることとは烏桓と手を組んだ中山太守・張純による謀反です。
公孫瓚らが鎮圧に当たっていたものの、なかなかうまくいかず、中央もかなりヤキモキイライラしていました。そこで、烏桓にも支持されていた劉虞に白羽の矢が立ったのです。
徳だけで反乱を鎮圧
幽州牧となった劉虞が赴任すると、烏桓の統領・丘力居はすぐに使者を出し、劉虞に従うことを伝えてきました。これにより、形勢逆転。不利を悟った張純は鮮卑族に逃げ込んだものの、そこにいた食客に殺されてしまいました。その首は劉虞の元へ。この功績が讃えられ、劉虞は大尉に昇進します。
劉虞が皇帝に!?
献帝を操る董卓に対抗すべく袁紹は劉虞にラブコールを送ります。袁紹は漢王室の血を引く劉虞を皇帝に立てれば、献帝ごと董卓を滅ぼす大義名分ができると考えたのでしょう。しかし、良識ある劉虞は当然断ります。天に二日はありませんからね。
袁術に狙われた劉虞軍
洛陽を焼き尽くし、命からがら長安に逃げ込んだ董卓。くたくたでへとへとの献帝はその名声と血筋を頼り、劉虞の息子・劉和を救援要請の使者として劉虞に送ります。しかし、劉和は道中で袁術に捕まり、「兵を南陽へ送ってください」とニセ手紙を書かされてしまいます。
劉虞の元に届いたその手紙を読み、公孫瓚はすぐさま袁術の企みを見抜きました。
「これは罠でしょう。袁術が兵をかすめ取ろうとしているのです。」しかし、この公孫瓚は張純の乱のとき、嫉妬に狂って劉虞と烏桓の仲を引き裂こうと画策した男でした。そんな男の言葉を信じられるはずもなく、劉虞は兵を南陽へ送ってしまいます。
公孫瓚との対立が激化
助言を聞かなかった劉虞に憤りを覚えたのか、自分の助言が袁術に知られるのを恐れたのか、なんと公孫瓚は袁術の元に使者を飛ばし、自分の軍も派遣して袁術の企みに加担。これにより2人の間に大きなヒビが入ったのですが、このヒビはますます広がっていきます。
袁紹との無謀な小競り合いを繰り広げ、民草を苦しめる公孫瓚。劉虞は上官としてこれを諫めますが、公孫瓚は知らん顔。怒った劉虞が兵糧の供給を減らせば、今度は幽州で略奪行為を始める始末。怒りが頂点に達した劉虞は公孫瓚を討伐することを決めたのでした。
徳の高さが仇となった劉虞
怒りに我を忘れた劉虞は、積極的に攻めることを諫めた臣下を処刑。戦の直前に味方の士気を下げてしまいます。公孫瓚は民衆を盾に劉虞軍を迎え撃ちます。民衆を傷つけるなとの劉虞の命令に、なすすべもなく立ち尽くす劉虞軍。結局劉虞は公孫瓚に生け捕られてしまいます。民草から劉虞の助命を望む叫びが多く聞かれ、これを受けた公孫瓚は意地悪く次のように言い放ちました。
「劉虞に天子の器があるならば、天が雨を降らせて助けてくれよう」
雲一つない空から雨が降るはずもなく、劉虞の首は公孫瓚にはねられました。徳の高さが仇となった、一人の皇族の悲しい最期でした。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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