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異常気象が袁術の天下を阻んだ![その真相に迫る]

2024年7月29日


袁術

 

天災と袁術(えんじゅつ)は忘れた頃にやってくると言われています。古来より戦争は異常気象によってその結果を左右された事がありました。

 

ナポレオン

 

 

曹操(そうそう)は赤壁の戦いの前に疫病の蔓延で士気が低下して呉討伐を断念、ナポレオンは冬将軍に阻まれてロシアを征服できず没落を開始します。我らが袁術も、異常気象によって、天下を握るチャンスを失いました。「どうせ嘘でしょ?」そう思うなら、どうか読んでみて下さい。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂布を寝返らせた袁術の手紙

袁術

 

呂布(りょふ)は、1年余りの兗州攻防戦(えんしゅうこうぼうせん)で曹操に敗れてしまい195年、尾羽打ち枯らして徐州牧となったばかりの劉備(りゅうび)を頼りました。徐州の領有を狙い劉備と敵対関係だった袁術ですが、劉備の客分になった呂布から書状が届いたのをチャンスととらえてその返礼の書簡に呂布に謀反(むほん)するように(ささや)いていました。

 

英雄記を引いた後漢書には以下の記述があります。

 

 

私は呂将軍には、3つの恩義を受けています。

1の恩義は、袁家を皆殺しにした董卓(とうたく)を将軍が殺害してくれた事

2の恩義は匡亭(きょてい)の戦いで曹操に敗れて滅亡寸前の私を

将軍が曹操を攻撃する事で救ってくれた事

3の恩義は馬骨野郎の劉備を倒すのに将軍の霊威(れいい)があった事です。

 

私は愚鈍愚物なれど、この恩に身命を賭して報いたいと思います。

聞く所によると将軍は長年の戦いで兵糧が不足しているとか、

米二十万(こく)を用意してプレゼントしましょう。

 

この一回で終りではありません、また度々兵糧を送ります。

武器や兵具でも足りないものは与えますよ。

いかがなものでしょうか?

 

袁術の狙いは3の恩義で、呂布に対して「あんたが謀反してくれれば、劉備を打ち倒す事が出来るそしたら、兵糧も武器も防具もジャンジャン!プレゼントしますよ」という事でした。

 

 

雑穀の屑しか送らない袁術に呂布は激怒して敵対する

呂布

 

兗州の攻防戦では、旱魃(かんばつ)による飢饉(ききん)に苦しめられた呂布は、自軍を支えるだけの兵糧にさえ事欠いていました。だから寄るべなく、何の接点もない劉備を頼ったくらいなので、兵糧や武器、防具をくれるというのなら願ったり叶ったりです。大喜びで劉備が袁術とドンパチを開始した隙を突いて下邳(かひ)で謀反し徐州を陥れる事に成功しました。

 

 

「さあ、約束通りにしたぞ、しばらくは食い放題だ!」

 

呂布は、わくわくして袁術のプレゼントを待ちますが、届いたのは米二十万斛どころか、もみ殻のようなクズでした。

 

呂布

 

 

袁術に騙されたと憤る呂布は、小沛に駐屯する劉備を攻めた紀霊(きれい)の3万の軍勢に対して劉備救援の為に出陣し紀霊に劉備討伐を思いとどまらせ撤退させたのです。

 

 

 

袁術が約束を破ったのは異常気象のせいだった

袁術

 

こうしてみると、悪辣(あくらつ)な袁術がやる気もない兵糧で呂布を釣り、欺いたように見えますが、実はそうではないようです。例えば後漢書、献帝記には、195年5月以前に

 

長安が大旱魃(だいかんばつ)に見舞われたという記録が出てきます。

 

この1年前には、周知の通り兗州で深刻な旱魃と蝗害(こうがい)があり呂布と曹操は戦争を停止し城に引っ込まざるを得ない事態に陥ります。つまり、194年と195年の旱魃は連年の異常気象によるものであり、旱魃の影響は寿春の袁術にまで及んだのではないでしょうか?

 

袁術

 

当初は、約束通りに兵糧を送るつもりだった袁術は折からの旱魃で、国内の兵糧を(まかな)う事も覚束(おぼつか)なくなり、やむなく呂布には、もみ殻ばかりを送ったそういう事ではないかと思います。袁術が本気で約束を反故にする気なら、もみ殻どころか、米一粒も送らないという判断も出来た筈であり、そこを考えると、送る気はあったが旱魃で不可能になったそんな事実があったと推測できます。

 

袁術と呂布

 

 

ここで、呂布と友好を結べなかったのは袁術にも痛恨事でした。間もなく呂布は、陳登(ちんとう)陳珪(ちんけい)に騙されて曹操の方に傾いていき、袁術と激しく戦う事になったからです。

 

 

さらなる異常気象で自滅した袁術

村民

 

 

袁術と言えば内政能力ゼロでひたすら搾取(さくしゅ)するばかり、197年に皇帝に即位するとその贅沢も破滅的に激しくなり、自分達と妃だけに豪華な生活をさせて庶民は餓え苦しみ、道や濠には死体が散乱したとされています。

 

しかし、献帝記を見てみると、

 

197年の5月夏五月に蝗が発生した。秋九月に漢水が氾濫(はんらん)した。

この年に江淮(こうわい)の間で飢饉があり、民は互いに食い合った。

 

というような記録があり、蝗や長雨で河川は氾濫したようです。江淮といえば、袁術の拠点がある寿春(じゅしゅん)も含まれていますから、長雨で淮河が氾濫して、田畑が土砂に埋まり食料は絶望的になり人民は餓えて、互いに食い合った可能性も否定できません。

 

袁術

 

 

この記述の後に袁術は、小勢力の陳劉寵(りゅうちょう)を計略で滅ぼしていますが滅ぼした理由は「兵糧を融通してくれまいか?」という袁術の要求を劉寵が「偽皇帝にそんな事できるか!」と拒否ったせいです。陳に入城した袁術軍は、凄まじい略奪行為を行い、豊かだった小王国陳の人民は飢餓に苦しんだそうです。つまり第一に袁術軍が餓えており、それに兵糧を横取りされて陳の人々が餓死する事態に陥った、、このように考えて間違いないかと思います。

 

 

 

袁術を滅ぼした最大の敵は、呂布でも袁紹でも曹操でもなく、旱魃や河川氾濫のような異常気象だったのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

袁術は何よりも天変地異に祟られていました。二十一世紀の科学でさえ抗えない自然と戦う袁術は素敵です。曹操も天変地異に祟られましたが、優秀な経済官僚や農業官僚のお陰で屯田(とんでん)制等で食糧を備蓄して乗り切りました。

 

袁術

 

 

袁術にはそこまでの能力はなく、そんな人材もなく、しかも連年の異常気象により立て直す暇もなく没落し滅亡してしまったのです。もし、袁術がこんな連続で異常気象に出くわさなければ、あのように秒速で滅んでしまう事は無かったのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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