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馬超は悪人?それとも[義]に生きる英雄?

2024年8月19日


 

魏の曹操孟徳

 

 

三国志正史と三国志演義で大きく評価が分かれる人物がいます。その筆頭は曹操(そうそう)でしょう。

 

 

 

蜀漢(しょくかん)の正統性を物語の柱にしている三国志演義では、後漢王朝(ごかんおうちょう)傀儡(かいらい)とし、劉備(りゅうび)と敵対している曹操は悪人なのです。

 

 

五虎大将軍の馬超

 

 

曹操と並び評価の分かれるのが馬超(ばちょう)です。今回は馬超の描かれ方がいかに違うのかについて検証していきましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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儒教で重んじられる忠と孝

 

日本の武士といえば、主君の命令に忠実であり、例え主君の判断が間違っていても反論することなく忠義を尽くすというイメージがあります。

 

秩序を守ろうとする主君側にとって、配下の忠の精神はとても重要です。特に儒学を公認した江戸幕府ではその傾向が顕著になります。しかし、元来、忠よりも重んじられるのが孝です。理由はシンプルで、主君が滅ぶことよりも家を存続させ、子孫を残していくことの方が重要だからです。孝とは「父母や祖先に尽くすこと」を指します。

 

 

最も重い罪が親殺し

 

ですから中国では親殺しは重罪です。明や清の時代には「割股(かつこ)」という風習があり、病気の親を介抱するために自分の肉を削いで食べさせることが最高の孝行のひとつとされています。

 

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

三国志演義における呂布(りょふ)は不孝の代表格でしょう。義父である丁原(ていげん)を殺し、次の義父となった董卓(とうたく)も殺しています。最強の武勇を誇っても、呂布には正義がないために無残に滅んだのだと三国志演義は強調しているようです。

 

 

羅貫中と関羽

 

 

三国志演義が明の時代の羅貫中(らかんちゅう)によって書かれ、清の時代の毛宗崗によって改訂されているのですからそういった描かれ方は自然なものだったのでしょう。

 

馬超の父の馬騰はいつ処刑されたのか

 

ここで大きな問題になるのが、馬騰(ばとう)・馬超親子です。なぜ問題視されるのでしょうか?それは馬騰が曹操の命令によって処刑された理由と関係しています。

 

出世した韓遂

 

三国志正史によると曹操の漢中侵攻に危機感を持った馬超と韓遂(かんすい)たちは、曹操に対して反旗を翻します。しかし、曹操陣営の仕掛けた離間の計が功を奏し、馬超や韓遂は大敗を喫することになるのです。

 

 

 

 

これが211年の話になります。この時点で馬超の父親は衛尉として朝廷に仕えていました。馬超の弟たち馬休(ばきゅう)馬鉄(ばてつ)も同行して鄴にいたのです。人質という側面が強かったと思われます。韓遂は息子や孫を人質として朝廷に差し出しています。

 

 

馬超・韓遂が曹操に大敗した後、212年に馬騰らは馬超の謀叛の罪に連座して処刑されてしまいます。一族200人が殺されたと記されています。馬超は実父が処刑される原因を作ってしまったことになるのです。

 

 

三国志演義はどう描いたのか

 

しかしそのような大罪を犯した者を、義を重んじる蜀漢が受け入れることは矛盾してしまいます。ましてや三国志演義では五虎大将(ごこだいしょう)のひとりに数えられているのです。

 

劉備に降伏する劉璋

 

大義のために戦っている劉備の配下の代表格が親殺しの汚名を負っているのは大問題です。ですから三国志演義は時間軸をずらしました。馬騰は朝廷に仕える忠義の士であり、曹操の横暴を許せず謀叛を画策、それが露見して処刑されたと設定を変えたのです。父を殺された馬超はその仇を討つために挙兵するという筋書きです。

 

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このように三国志演義は馬超の扱いにはことさら神経を使ったようで、版本されるたびに細かく修正されていきます。

 

 

三国志ライターろひもと理穂の独り言

 

馬超はなぜ親が殺されることを覚悟して挙兵したのでしょうか。周辺の軍閥や羌などによって御輿にされた感じはあります。

 

馬超の仲間入り

 

10万の連合軍をまとめるためにはカリスマ性のある馬超のような存在が必要だったのでしょう。馬超にしても不孝者と呼ばれることになっても、地方の自治を守りたいという志があったのかもしれません。

 

ボロボロになった馬超

 

ただし、馬超は一族を失い、さらに地盤も奪われて落ち延びていくことになります。この結果だけを見ると悪人と言われても仕方がないのでしょうか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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