趙雲に関する記述は「三国志正史」ではわずか246字しかありません。これを補ったのが裴松之の注釈であり、その基となったのが「趙雲別伝」になります。今回は趙雲(ちょううん)の活躍とその最後についてお伝えしていきます。
三国志の趙雲の戦歴
もともとは北の雄、公孫瓚の配下だった趙雲は、劉備(りゅうび)が曹操(そうそう)に敗れて袁紹を頼った際に家臣に加わっています。その後は劉備に同行して劉表(りゅうひょう)を頼り、長坂坡の戦いでは単身で敵中に飛び込み、劉備の妻である甘夫人とその子・阿斗を救出しました。三国志の中でも伝説的なトピックスの一つです。
益州を平定して後は、漢中の戦いにおいて追撃してくる曹操に対し大きく門を開いて待ち構え、警戒した曹操を退却させました。劉備はこの大胆な戦法を聞き、「子龍は一身これ胆なり」と賞賛しています。
趙雲伝での趙雲の最期
趙雲は229年に死去しています。正史では跡を継いで長子の趙統が昇進したという記述しかなく、三国志演義でも趙統と弟の趙広が伝令として趙雲の病死を、諸葛孔明ならびに劉禅に報告するシーンしか描かれていません。趙雲の最後についての詳細は謎のままです。
演義では趙雲の亡骸は銀屏山に葬られ、趙統が虎賁中郎将に任じられて趙雲の墓を守るように告げられています。ちなみにその後、弟の趙広は姜維に従い魏の侵攻に立ち向かい戦死していますが、演義にはその描写もありません。
趙雲は五丈原ではどんな役割をしたの?
諸葛孔明の最後の北伐となる五丈原の戦いは234年になりますので、趙雲はすでに亡くなっています。これより以前に趙雲は漢中より斜谷道(褒斜道)を通り、魏の領地・長安の西の郿に向けて侵攻しました。これが228年の第一次北伐です。趙雲は囮となって魏の主力である曹真の軍を途中の箕谷でひきつけ、その間に諸葛孔明は大きく迂回して祁山へ出ました。
そのまま侵攻し、背後から郿や長安を攻める手はずでしたが、馬謖(ばしょく)が拠点である街亭を守り切れず計画は頓挫します。泣いて馬謖を斬ることになるのです。成果といえば姜維を味方に加えたことぐらいでしょう。つまり趙雲は斜谷道の出口付近にある五丈原にたどり着いたことはないのです。諸葛孔明の宿敵となる司馬懿とも戦うことはありませんでした。第一次北伐の敗北の翌年に趙雲は亡くなっているからです。
諸葛亮が行った北伐、その時の趙雲の役割
蜀を代表する武将である趙雲は当然のように魏軍に徹底的にマークされます。このときの魏の大将軍は曹真でした。正史では曹真の戦略は称賛されており、第一次北伐に対しては囮となった趙雲軍を撃退していますし、第二次北伐では陳倉を攻めてくることを予想し備えています。逆に演義での曹真は完全に司馬懿登場の引き立て役になってしまっています。
第一次北伐で囮役とはいえ曹真に敗北した趙雲は、その責任をとって降格しています。ただし兵をよく統率したために損失はわずかで、軍需物資もしっかりと持ち帰ってきたことを諸葛孔明から評価されています。演義では第一次北伐で、趙雲は姜維と一騎打ちをして引き分けていますが、趙雲は涼州の天水ではなく、はるか東の斜谷道(褒斜道)を北上していたのでこれは完全に演義のフィクションだといえるでしょう。
はじめての三国志ライターろひもと理穂の考察
仮に趙雲が五丈原の戦いまで生きていたら、諸葛孔明の戦略も大きく違っていたことでしょう。蜀の弱点はやはり人材不足だったからです。その穴を諸葛孔明は自身で埋めようと懸命に働きましたが、結果として無理がたたって過労死しています。
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