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孫権の決断![蜀裏切り情報を信じなかったその理由]

2024年10月1日


孫権

 

 

晩年の孫権(そんけん)は、後継者問題でどっちつかずになったり、佞臣(ねいしん)を登用して群臣に愛想を尽かされるなどモーロクした話が多くなります。しかし、全てが全て孫権がおかしくなった訳ではなく、一方では疑われた蜀を(かば)い、無用な争いを回避した逸話もあるのです。今回は、さすが呉の大黒柱と拍手を送りたい孫権の決断を紹介しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の政変が呉の歩隲と朱然に疑念を持たせる

洛陽城

 

 

西暦244年、歩隲(ほしつ)朱然(しゅぜん)という呉の重臣が各々で孫権に蜀が呉を裏切り魏に付こうとしていると上奏しました。それによると、蜀から戻った者が全員、蜀が盟約に(そむ)いて魏に通じようとして多くの軍船を建造し、城郭を修理している様子が見られると報告。

 

蔣琬(しょうえん)

 

 

また大将軍の蔣琬(しょうえん)は漢中を守りながら司馬懿(しばい)が南下している間に兵を出して虚をつけばいいのにそれをせず、むしろ漢中を他人にゆだねて成都近郊まで戻ってしまった。これは魏と約束がある事は明白で、呉は蜀にも備えねばならないと言うのです。中々深刻な事態に孫権は、どのように対応したのでしょうか?

 

 

ガラにもなく冷静な孫権の反論

呉の孫権

 

蜀が裏切り魏につくかも知れない!このショッキングな上奏に孫権は、怒り狂って先制攻撃を命じるかと思いきや、、意外にも冷静でした。

 

(けい)らの言い分はにわかに信じ難い、そも(ちん)は蜀を軽んじた事はないし、盟約を裏切るような(やま)しい行動もしていない。なのにどうして蜀が裏切るだろうか?

 

また、諸君は司馬懿の動きに蜀が連動しているというが、司馬懿は(じょ)に来たと思えば数日で退いた。蜀は万里の先にあるのに、どうして司馬懿に連動して出兵できると言うのか?

 

昔、魏が漢川に入ろうとした時、こちらは始めは厳戒し、挙動する前に魏が帰還したので救援を取りやめた。蜀はこの時の事を呉と魏で仕組んだ茶番だと疑っただろうか?

 

卿らは、蜀が城壁を修理したり船を建造しようとするのが怪しいと言うが、卑しくも国家たるものが自国を守る備えをしないでどうする?わが国でも城壁は修理し、軍船も建造するが、これは蜀を攻めようと思っての事だったのか?

 

とはいえ卿らは他人の言は信じられまいから、朕は我が家を破ってもこの言葉を請け負うぞ。

 

 

 

 

孫権の言葉は的中する!

呉の孫権は皇帝

 

孫権の見立て通り、蜀が魏の司馬懿と連動して攻めてくる事はありませんでした。実はこの頃、蜀では蔣琬が呉と連動して北伐を再開しようと画策していて漢水を遡り水路から魏を討とうと考えていたのです。

 

楊儀、姜維、費イ

 

 

ところが、この北伐再開に劉禅(りゅうぜん)以下の群臣が猛反対した為に計画は立ち往生し、呉に計画を知らせない内に蔣琬は漢中から内陸の()に左遷させられました。しかし、一連の事件は一切呉に知らされて無かったようで、不透明に指揮官の蔣琬が漢中を去ってしまった事で歩隲や朱然は、蜀の動向に胡散臭いものを感じたのでしょう。ところが孫権には猜疑心(さいぎしん)より現実を見極める冷静な目が残っていたのです。

 

 

諸葛瑾亡き後も冷静さを保つ孫権

諸葛瑾

 

孫権の判断は何でもないように見えても実は凄い事でした。この頃、すでに諸葛亮は亡く、兄の諸葛瑾も西暦241年には死去していました。以来は蜀と呉の間に太いパイプがあったわけでもなく、疑心暗鬼が生じやすい状況にありました。

 

さらには、この頃、呉は樊城を攻めて一時は包囲したものの皇太子の孫登(そんとう)の死によって、軍を引き返し、樊城も司馬懿に解放させられたり、記録的な大雪が降って鳥獣の大半が死ぬという自然災害にも祟られている時期でした。

 

孫権に攻められ戦死する黄祖

 

 

それにも関わらず、長年の経験と合理的な考え方で、群臣の疑心暗鬼(ぎしんあんき)を払拭した孫権は、大半モウロクしていても、呉の大黒柱と呼ばれるに相応しい能力を一部は保持していたと言えます。

 

 

人口流出に悩むも見せしめを禁じた孫権

後継者争いで悩む孫権

 

もう一つ、孫権の治世の晩期には、呉から住民やら武将がどんどん魏に流出する時期でした。そこで呉では見せしめの為に、逃げ出した(とく)や将軍の妻子を殺害していましたが、孫権はそんな事をすれば妻に夫から去らせ、子に父を棄てさせる事になり、礼教に悪影響なので、今後は中止するように命じたと三国志孫権伝を補う江表伝にあります。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

 

本来なら、孫権としては人材の流出を考えれば、逃げれば妻子を殺すぞという脅しに使える見せしめ刑ですが、人情を損ねてまではそれは出来ないという事でしょう。この辺り、民衆には慈愛のある面を見せた孫権らしい配慮です。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

晩年の孫権と言えば、酒乱、頑固、猜疑心の塊、ワガママと老害が全て勢ぞろいしている印象ですが、若年の頃は紛れもない名君だった事もあり、晩年にも名君の片鱗が残っている感じがあります。

 

もっとも、歩隲や朱然も本気で蜀が攻めてくると思っていたわけではなく、蜀をダシにして、負けっぱなしの戦況を挽回すべく防衛予算をせしめる目的だったとも言われていますが、、

 

参考:正史三国志

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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