ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
三国志に登場する群雄の中で強烈なインパクトをもっているのが「董卓」でしょう。「傍若無人」「暴虐非道」とはまさに董卓のためにあるような言葉です。前代未聞の恐怖政治で朝廷を牛耳りしました。
もちろん命を賭して董卓の専制を阻止しようとする漢王朝の忠臣もいましたが、ことごとくが捕らえられ、耳や鼻を削がれ、生きたまま煮られて食されたとも伝えられています。
董卓子飼いの者たち、李傕や郭汜、牛輔や李儒もまた残虐な性質を受け継いでおり、かつての都・洛陽も遷都先の長安もその悪道非道の犠牲になっています。
192年のクーデター
そんな董卓は内紛によって滅びることになります。信頼していた司徒・王允と、養子に迎えていた騎都尉・中郎将の呂布に裏切られ、誅殺されるのです。それが192年4月のことでした。董卓の親族はことごとく処刑され、火に焼かれます。
では、もし呂布が董卓を裏切らず、司徒・王允のクーデターを事前に食い止めていたらどうなっていたでしょうか。董卓の専制はまだまだ続くことになったことでしょう。董卓はその寿命を全うするまで生き続けたかもしれません。
他の群雄に董卓を倒す力はあったのか
これについては「ない」と断言できます。そもそも多くの群雄が協力して「反董卓連合」を組織したにも関わらず董卓を討伐できてはいないのです。董卓は「太師」として完全に朝廷を掌握しています。さらに居城の「郿」はとてつもなく堅固であり、30年間は籠城できる食料が保管されていました。そもそも兵力の規模が他の群雄を圧倒しているのです。
東国はさらに群雄が覇権を巡って争っている状態です。袁紹派と袁術派に分断されており、一枚岩で董卓に対抗できる状態ではありません。可能だとすれば東国を完全に一人の群雄が平定した後の話になるでしょう。
董卓は様々な群雄に働きかけて、東国の混乱に拍車をかけています。さらに洛陽で挙兵した名将・朱儁も牛輔・李傕・郭汜らに敗れ、兗州西部(陳留郡)・豫州西部(潁川郡)は略奪・虐殺の被害にあっているのです。東国は少しずつ董卓の勢力に押され始めています。
無敵の呂布の活躍
兵力、財力、兵糧面にまったく死角のない董卓軍において、最強の呂布が戦う事だけに集中すれば他国にとってこれ以上の脅威はありません。袁紹、袁術、曹操、陶謙などあっという間に飲み込んでしまいます。不利を悟った劉表や公孫瓚は董卓側に付いたかもしれませんね。
東国は数年のうちに董卓軍によって平定されてしまいます。その進撃を食い止められるのは長江以南の丹陽郡や呉郡といった揚州南部、あとは天然の要塞といわれる益州くらいでしょう。三国志に似た形勢は完成したかもしれません。
董卓は献帝に禅譲を迫り、ここで漢王朝は滅びます。董卓は皇帝に即位し、さらに強靱な軍事国家を創り上げていくのです。こうなると、はたして曹操、劉備、孫策らが活躍できる隙間はあったのでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
問題が無いわけではありません。クーデターや暗殺に怯える董卓が呂布を身辺から離して大将として起用できるのかどうか。難しい問題です。
呂布などの幷州出身者と李傕などの涼州出身者との確執もあります。呂布の武勇に勝る武将はいませんが、涼州出身の武将は数が多いです。派閥争いになると呂布は不利になります。悪は栄えず、の言葉どおり、董卓の王朝はどこかで破綻をきたし滅びの道を進んでいたことでしょう。そこで頭角を現すのは誰なのか。
やっぱり地方で反旗を翻して勢力を拡大していたであろう曹操なのでしょうか。気になる展開ではありますね。皆さんはどうお考えですか?
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