ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
三国志に登場するイケメンといえば、呂布、馬超、孫策、荀彧などがいますね。(あくまでも言い伝えによるとですが)今でこそ三国志ゲームの登場人物はみんなイケメンで描かれれていますが、昔のシュミレーションゲームだと、後は趙雲、陸遜、姜維ぐらいだったと思います。
おっと、大切な人物を忘れていました。「美周郎」の異名を持つこの方、「周瑜」です。周瑜が不細工な漫画やゲームを見たことがないですね。あってもいいのではないかと思いますが。今回は「周瑜がもしも生きていたらと」いうテーマでお話していきましょう。
周瑜はいくつで亡くなったのか
周瑜は若くして病没したことでも有名です。36歳でした。ちなみに坂本龍馬は32歳で暗殺されました。共に若くして大仕事を成した後に亡くなっていますね。
周瑜は赤壁の戦いで、大軍を率いるあの曹操を破りました。大軍を率いてあそこまで大敗したことは曹操の生涯において、この一度だけです。
ですから周瑜には「三国志最強説」もあるくらいです。三国志正史と三国志演義では周瑜の描かれ方があまりに違いますが、私は公平な立場から客観的に見た時に三国志正史の方が真実に近いのではないかと思います。(特に三国志演義を否定するつもりはありません)
何が言いたいのかというと、周瑜は諸葛亮孔明の引き立て役ではないということです。周瑜が病没するときに「天はなぜ諸葛亮孔明も同時に誕生させたのだ!?」みたいな恨み節などまったくなかったでしょう。なぜなら周瑜の計画は諸葛亮孔明によって妨害されたことなどまったくなかったからです。
天下二分の計
孫権は完全に周瑜に荊州方面を任せています。周瑜はかなり自由に指揮することができたでしょう。周瑜の構想はこうでした。「長江沿いを完全に押さえ、上流にある益州へ侵攻、益州を併呑し、西涼の馬超と結んで曹操を挟撃する」周瑜は揚州、荊州、益州を支配することで曹操と真っ向からぶつかれる勢力を築こうとしていたのです。
孫権も周瑜ばかりに任せるわけにはいかないと、建業から合肥に攻め込んでいます。徐州も押さえてしまおうという作戦ですね。こうなると曹操も苦戦は必至でした。
天下三分の計は!?
じゃあ、諸葛亮孔明の掲げた天下三分の計はどうなるの?という話になりますが、実際のところ周瑜が生きていたら、劉備の益州への侵攻は難しかったでしょう。理由は長江沿いを完全に周瑜に押さえられているからです。劉備は出口を封鎖された形になっています。
周瑜の活躍を、指をくわえて見ているしかなかったのではないでしょうか。天下三分の計はならず。ということです。同盟を切って周瑜の背後を襲うという選択肢もありますが、それをしたら劉備の「義」は消失します。
天下の笑いもので、誰も劉備を英雄扱いしませんね。名声は地に落ちます。もちろん諸葛亮孔明のことですから、何かこれを打開する秘策があったかもしれませんが・・・(むしろこれが一番気になりますね)。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
老いていく曹操に対して、まだまだ壮健な周瑜。水軍の戦ではなくなるので、曹操の腕の見せ所にはなりますが、長期戦になれば若い周瑜に分がありそうです。もしかしたら荊州南部の劉備の軍勢も吸収してしまっていたかもしれません。
すると、「孫権が覇者」となる。そんな可能性も現実味を帯びてきますね。とりあえず、周瑜が生きていれば魏・蜀・呉の三国の建国はなかったことでしょう。タイトルも「二国志」になっていたかも!?皆さんはどうお考えですか?
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