周瑜の死後、その一族はどうなったの?陸遜の下で活躍する周峻や息子たち

2017年1月12日


 

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周瑜

 

小覇孫策(そんさく)の無二の親友であり孫策の江東・江南の平定に

尽力したばかりか赤壁の戦いでは、実質上、曹操を破った呉の重鎮である

美周郎、周瑜公瑾(しゅうゆ・こうきん)

しかし、そんな彼も、劉備(りゅうび)を警戒し先に蜀を獲ってしまおうと

計画した矢先、南郡攻略で負った矢傷の為に36年の人生を閉じます。

呉になみいる名将の中でも一際、光彩を放った周瑜ですが、

残された一族は彼の死後、どうなってしまったのでしょうか?

 

関連記事:名将周瑜は政治のセンスもあった?戦に強いだけじゃない周瑜を考察

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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周瑜を継いだのは、長男、周循

周瑜

 

西暦210年に周瑜が死ぬと、その家督は長男の周循(しゅうじゅん)が継ぎました。

周瑜には、二男一女がいるようですが、兄弟の母が小喬(しょうきょう)かは不詳です。

ただ、他に妻の記録がないので、小喬が母である可能性は高いです。

 

この周循は、雰囲気に周瑜を思わせるものがあったようです。

恐らく、周瑜に似て、堂々たる美丈夫だったのでしょう。

周循は、将来を嘱望され孫権の娘である大虎(だいこ)孫魯班(そんろはん)を妻にして孫家と縁戚になります。

周循は、騎都尉を拝命しましたが、西暦229年に死去します。

 

早く亡くなった為に、子孫は無く、ここに周瑜の嫡流は絶えます。

寿命まで父に似てしまったのでしょうか・・

 

周循の早死にで後を継いだ周胤

 

周循の早死にの為に、家督は弟の周胤(しゅういん)が継ぐ事になります。

この周胤も、孫権の娘を妻にして勢い盛んで興業校尉になって、

1000名の兵を率いて公安に駐屯しています。

 

西暦229年に、兄の家督を継いで、都郷侯になりますが、

素行が悪いとして孫権の怒りを買い、罪を得て廬陵(ろりょう)郡に流されます。

それから、10年、周胤は許されず、流刑されたままでしたが、

たまりかねた、諸葛瑾(しょかつきん)と歩騭(ほしつ)は、

周瑜の功積を上奏し、周胤を赦免してくれるように孫権に頼みますが、

孫権は、なかなか許しませんでした。

 

しかし、諸葛瑾と歩騭は再度上奏し、それに朱然(しゅぜん)と

全琮(ぜんそう)も賛同し、孫権は、渋々、周胤を赦す事にします。

 

晴れて都に戻れると思われた周胤ですが、この頃病を得て病死します。

子孫の記録はないので、恐らく居なかったのでしょう。

 

皇太子、孫登の妃になった周瑜の娘

大喬

 

周瑜には娘もいました、一説には名前を周徹(しゅうてつ)と言うようです。

周瑜の死後に、呉郡に住んでいましたが、西暦225年、孫権の命で、

17歳になっていた皇太子、孫登(そんとう)の妃になっています。

妃であれば、年齢を大体合せると思うので周徹は15~17歳位で、

周瑜の最晩年の娘になるかも知れません。

 

まあ、若死なので最晩年と言っても、30代の前半なんですが・・

 

母が、あの小喬で父が周瑜であれば、さぞかし美しい姫だったでしょうが

結局、彼女は孫登の子供を産む事なく、若くして死んだようです。

 

美人薄命と言うべきか、ともかく、こうして周瑜の血筋は、

完全に途絶えてしまう事になります、寂しい・・

 

周瑜の兄の子、周峻

 

周瑜には兄がいて、その兄の子の周峻(しゅうしゅん)も優秀な人物でした。

彼も周瑜の功積で兵1000名を与えられ、陸遜(りくそん)の指揮下で活躍します。

その後、周峻が死ぬと、その息子の周護(しゅうご)を将として立ててくれるように

全琮が上奏します。

 

ちなみに全琮が、周護を推すのは、彼の妻が再婚した孫魯班だから

そういう理由だと思われます。

 

しかし、孫権は、それを許さず、

 

「周瑜の功積は忘れたわけではないが、聞く所では、

周護は素行が悪く将にしたら不都合だ」

と言って、ついに取り上げませんでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

このように、周瑜の二男一女は、若死に、素行不良による流刑により、

呉においては、大きな功績を残す事が出来ませんでした。

それ以前に、おそらく孫権は、呉の建国におおきな手柄があった

兄の重臣だった周瑜を内心では良く思っておらず、その子孫が政治の中枢に加わるのを

出来るだけ排除しようとしていたフシがあります。

 

周瑜が没してから、時間が経過するほど、その子孫に対する扱いが

厳しくなるように見えるのは、その原因が大きいかも知れません。

 

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呉の武将

 

 

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