ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
三国志に登場する英雄たちの中でも「錦馬超」こと「馬超孟起」は人気が高いですね。なにせあの曹操(そうそう)をギリギリまで追い詰めたという実績があります。劉備軍に加わり、蜀の五虎大将軍に名を連ねているのもポイントが高いですね。
そんな馬超が曹操に仕えていたらどうなったのか?可能性がまったくない話ではありません。現に馬超の父親・馬騰(ばとう)や弟たちは鄴で役人勤めをしていました。朝廷に仕えていたということは、曹操に仕えていたのも同然です。
馬超と馬騰のどちらが先に動いたのか
父親の馬騰については「正史」と「三国志演義」とは描かれようが真逆です。正史での馬騰は、曹操に降伏し、人質同然の形で鄴に赴き、衛尉となっています。曹操はこれで関中は押さえたつもりでしたが、馬騰の長子・馬超が関中の軍閥をまとめあげ、羌族と手を結び、さらに老練な韓遂(かんすい)を味方につけて反乱を起こします。
そのため馬騰もその次子・馬休、三子・馬鉄もすべて曹操に処刑されました。中国において父親殺しは最も重い罪です。「忠」より「孝」を重んじる国なのです。馬超はこれで呂布(りょふ)に匹敵する大罪を犯したことになります。一方、蜀びいきの三国志演義は、話の展開を逆にしています。馬騰が宮中で曹操暗殺を試み失敗。父親や弟が処刑されたことに憤り、馬超は反乱を起こしました。つまり三国志演義での馬超はヒーロー的な存在なのです。
馬超はなぜ曹操に背いたのか
ここは正史にのっとり考えてみましょう。馬超がなぜ曹操に対して反乱を起こしたのか、様々な憶測があります。曹操が漢中の張魯討伐に出兵した際に、ついでに自分たちも制圧されると思い、先制攻撃を仕掛けたというのが理由とされています。
羌族の血も受け継いでいる馬超が、地方自治を守りたかったからという意見もあります。赤壁の戦いに勝利した孫権・周瑜と盟約を交わして挟撃した(周瑜は前年に病没してしまいましたが)という説もあります。どちらにせよ、父親の馬騰は漢王朝に対して反乱を起こしたことがあるほどですから、その馬騰が皇帝や朝廷に対して命がけで忠誠を誓っていたという設定は微妙です。三国志演義の話の展開はやや強引ですね。馬超は守るために戦ったのか、領土拡大のために戦ったのか、どちらかが正解なのではないでしょうか。
関羽とぶつかっていたかも
曹操にとっては、馬超の武勇、カリスマ性は魅力です。ぜひとも自分の陣営に組み込みたい人材でしょう。そうなると夏候惇や夏侯淵並みの待遇になったはずです。
219年に荊州の関羽が、曹操の領土である襄陽や樊城を攻めます。曹操は于禁と龐徳を援軍に出し、徐晃に後詰させていますが、もし馬超が手ゴマとしてあったとしたら話は変わっていたかもしれません。涼州の平定や漢中攻めではなく、関羽迎撃に馬超を用いたかもしれません。関羽と馬超は戦ったことがありませんから、ここでドリームマッチが開催されることになりますね。于禁。龐徳は関羽の水攻めに敗れましたが、馬超はどう対処したでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
そもそも馬超が劉備ではなく、曹操に降っていたら、劉備の益州平定は長引いたはずです。益州牧の劉璋は馬超の降伏を聞いて籠城を解いたからです。劉備の益州平定が遅れ、曹操の漢中平定が早まれば、両者の激突はもっと成都寄りになっていたかもしれません。梓潼、綿竹辺りだったかも。ということは、劉備は曹操の先鋒である馬超によって滅ぼされていたのではないでしょうか。馬超は、荊州で関羽と交えるより先に、益州で張飛・趙雲そして諸葛亮孔明と戦っていたかもしれませんね。
皆さんはどうお考えですか。
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