三国志演義で、劉備がはじめて迎えた軍師、徐庶。劉備の敵役の曹操に母親の身柄をおさえられ、しかたなく劉備と別れ曹操陣営におもむきました。
徐庶の母は息子が主君を捨てて来たことに怒り自害しましたが、その後も徐庶は劉備のもとへ戻らず曹操に仕えました。
戻らなかったわけとして、別の記事で三つの理由を挙げましたが、その他に、中国語のたくさんのウェブサイトで指摘されているちょっとびっくりするような理由があります。
それはなんと、鬼畜すぎる劉備に徐庶が幻滅したためだというのです!劉備といえば涙もろい仁の人じゃないんですか? Why, Chinese people!?
※鬼畜:鬼のような仕打ち、血も涙もないむごい行い
徐庶が劉備に仕えた理由
三国志演義に、徐庶のこんなせりふがあります。「劉景升(劉表のこと)が賢者を招いていると聞き、わざわざ会いに行きましたが、いろいろ議論してみたところ役に立たない者であることが分ったため、置き手紙をして出て参りました」
徐庶は劉備に仕える前に劉表に仕えようとしていたのです。「いろいろ議論してみた」「置き手紙をして出て参りました」ということは、劉表は徐庶をちゃんと相手にして、それなりの待遇も与えていたことが分ります。
劉表といえば、荊州のトップで、豊かな土地と人脈と多くの軍勢を持っていた堂々たる群雄の一人です。そんな結構な人物から認められていたのに満足せず、流れ者で地盤も軍勢もなかった劉備に徐庶がひかれたのは何故なのか。
徐庶が劉備を選んだ理由はただ一つ、劉備の仁徳に惹かれたためであると、冒頭に述べたようなウェブサイトでは言われています。
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劉備の仁徳のメッキが剥がれた!
徐庶が劉備のもとを去ると、劉備は徐庶が後継者として推薦した諸葛亮を新たな軍師に迎えました。
程なく曹操が南征を開始し、劉備の駐屯している新野に接近してきました。劉備は新野城を捨てて南の樊城に逃れることとしましたが、その際、新野の住民に「曹操軍が来れば必ず不仁の挙に及び、市民を傷つけ害するであろう」と触れ回って脅かして、住民たちにも新野を捨てて自分に同行するよう勧告しました。
こうして城の住民を連れ出した劉備は、諸葛亮の計略に従って、曹操軍の先鋒が新野に入城したところを焼き討ちしました。住民を無理やり移動させたのは、自分が街を焼いてしまうためだったのです。
冒頭に述べたようなウェブサイトの論者たちは、徐庶がこの一件によって劉備の仁の仮面の下にある本当の顔、覇業のためには手段を選ばない本性に気付いてしまったのだと指摘しています。
市民を盾にして逃げる劉備、幻滅する徐庶
劉備は新野から自分についてきた住民と、立ち寄った襄陽から脱出してきた住民とを連れて、南の江陵を目指して進みました。北からは曹操の追っ手が迫っており、家財を持ち老人や子供をたずさえた市民を連れながらのノロノロ行軍ではすぐに追いつかれることが目に見えていました。しかし劉備は市民を捨てずに連れ歩きました。
これについて、劉備は「大事をなすには必ず人を以て本と為す」と言っており、いつでも民を見捨てない仁君のようなポーズをとっていますが、いざ曹操軍に追いつかれた時には、民にはかまわず自分だけスタコラサッサと逃げています。足手まといになる市民をわざわざ連れ歩いていたのは、追撃を受けたときに民を煙幕がわりにして自分が逃げるためだったのです。
冒頭に述べたようなウェブサイトの論者たちは、ここに至って徐庶の劉備に対する幻想が完全に崩れ去り、徐庶は劉備を捨てる決意をしたのだと指摘しています。
三国志ライター よかミカンの独り言
要約すると、こういうことですね。
◎徐庶が劉備に仕えた理由はたった一つ、その仁徳に惹かれたためである
◎新野の焼き討ちとその後の逃避行で劉備の仁徳が偽りであることが露見した
◎唯一の魅力である仁徳が失われたため、徐庶は劉備を捨てる決意をした
三国志演義の劉備は偽善者っぽく見えるなぁとは私も常々思っていたのですが、中国でも大勢の方が同じように感じておられるらしいと分かって面白かったです。
徐庶についてのこの解釈の面白いところは、劉備を偽善者認定することで、徐庶の一途(いちず)さや高潔さが際立っていることです。
三国志演義の劉備といえば、他の登場人物を引き立て役にすることでいつも自分ばっかりいい子ちゃんになっている人というイメージがあったのですが、たまには自分が汚れて他の人物を引き立てる時もあるんですね。新しい発見でした。
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