武神・関羽の大ファンであればぜひ訪れたいのが関帝廟。
関帝廟には関羽だけではなくその息子である関平も祀られています。
父の最期まで付き従った関平ですから関羽と共に祀られるのは当然のことでしょう。
しかし、この関平の実の父親については様々な議論がなされています。
関平と関羽は実の親子だったとか飽くまで養子に過ぎず、関羽と関平に血縁関係はなかったとか…。
実際のところはどうなっていのでしょうか?
今回は関平の実の親について調べてみました。
この記事の目次
正史『三国志』と『三国志演義』とでパパが違う
実は、関平の実の父親とされている人物は正史『三国志』と『三国志演義』とで異なっています。
そのため、正史『三国志』だけを読んでいる人と『三国志演義』だけを読んでいる人とで関平の父親についての見解が異なるわけです。
では、それぞれの書物では関平の実の父親は誰だと書かれているのでしょうか?
以下よりご紹介してきます。
関平は正史『三国志』では関羽の実の息子
正史『三国志』において関平の名が登場するのは関羽伝のみです。
それもほぼ終盤で、初登場は関羽が荊州で曹操軍及び孫権軍と戦っていた時分。
「権遣将逆撃羽、斬羽及子平臨沮。
(権将を遣りて羽を逆撃し、羽及び子の平を臨沮に斬る。)」
このように孫権が派遣した武将に破られ関羽と共に打ち首に処せられたことだけが記載されています。
ここでは単に「子の平」とだけ書かれているため正史『三国志』においては関平は関羽の実の息子とされていることが窺えます。
最後の最後に突如として現れた関羽の息子・関平…。
関平について裴松之も特に注を付していないため本当に謎に包まれた存在です。
一体いつ誰との間に関羽は息子・関平をもうけたのでしょうね。
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『三国志演義』では関定の息子
一方、『三国志演義』では関平は物語の序盤とも言える場面で出てきます。
それは、劉備があまりにも調子に乗りすぎて曹操を怒らせ徐州を追われてしまった後、バラバラにはぐれてしまった劉備・関羽・張飛の桃園3兄弟がようやく再会を果たした館でのことでした。関定という人物の屋敷で再会を喜ぶ3人。
その様子を見ていた関定は同じ苗字を持つ関羽に対し、同族であるという理由により自分の次男の関平を養子にして一緒に連れて行ってやってほしいと申し込みます。
最初は難色を示していた関羽ですが、劉備が「子どももいないしおめでたいことではないか」と2人の間をとりなしたため、関平は晴れて関羽の養子になることになりました。
このような経緯が明かされていることから『三国志演義』では関平の実の父親は関定であることがわかります。
なぜ正史『三国志』と『三国志演義』とで実の父が違うのか?
ところで、なぜ正史『三国志』と『三国志演義』とで実の父親が違うのでしょうか。
『三国志演義』も正史『三国志』と同様に関羽と関平は血のつながりがあるという設定にしておいた方が何かと盛り上がるような気がしませんか?
しかし、関羽と関平は同時に命を散らしてしまう運命にあります。そのため、関羽と関平が実の親子関係にあると「血のつながりがあった息子まで死んでしまった…」と悲壮感が増してしまうことでしょう。
また、『三国志演義』には関羽と関平の死後に関羽の実子である関興が父の仇を討たんとおもむろに登場し、版本によっては関索という関羽の実子だと名乗る謎の人物まで登場しています。
このことからも、関羽の血を受け継ぐ人は生きていてほしいという『三国志演義』の編者や関羽ファンの強い思いが感じられませんか?
『三国志演義』において関平が関羽の実の息子として描かれなかったのは武神・関羽の死という悲劇を和らげるためだったのでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
関平については正史『三国志』を読んでも関羽の息子ということしかわかりません。
そのことがむしろ『三国志演義』の作者の想像力を掻き立て、関平はより魅力的なキャラクターになることができたのでしょう。
しかし、あまりにも魅力的になりすぎて、関羽の血を引く者として父と共に命を散らせるのはあまりにも酷だと考えられたのだと思われます。
そこで、関平を関羽の義理の息子という設定にし、読者のショックを和らげようとしたのでしょうね。
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