「はじめての三国志」では三国志の時代に起きた事件や三国志に登場する武将を題材にして皆様へ紹介しています。
今回紹介するのは曹操に反旗を翻した馬超に呉の名将として名高い陸遜が加わったら、天下統一できたのか考えてみたいと思います。
人望を備えた馬超
馬超は父・馬騰が曹操の元に去った後、曹操に対して反乱を起こしています。この時馬超の元に集まった豪族の数は正史三国志には詳しく記載されていません。ですが「典略」と呼ばれる書物によれば、馬超の元へ10万の兵士が集まったと記載されているので、多くの豪族たちが馬超の元へ参集したと考えることができるでしょう。
上記の事から馬超に人望があったことがお分かりになったと思います。
優秀な武将を持つ
馬超の元には戦術に優れた人材が揃っています。
例えば正史三国志で馬騰軍きっての勇将と称えられた龐徳。
馬超の死後蜀の平北将軍の位まで昇進した馬岱がいます。また馬超は羌族などの異民族から慕われていた為、彼が率いている軍勢もかなり強力だったと思われます。このように武将も優秀で軍勢も強力だった馬超。
しかし馬超には足りないものがありました。
馬超に欠けているのは??
武将も優秀で軍勢も強力。異民族から慕われ、多くの豪族からも慕われていた馬超。けれどもこれだけでは天下を統べる事ができません。その理由は戦略面を担当してくれる人材が欠如していた事です。
馬超軍には戦に強い龐徳や馬岱などの人材がいましたが、外交や戦に際しての計画などを考えてくれる人材が居ませんでした。そこでこの戦略面を担当する軍師にかなり無理くりで、レンの妄想が爆発した突拍子もない想像ですが、陸遜が加われば、馬超が天下を統一できたのか考えてみたいと思います。
いつ頃加えるの??
馬超軍に陸遜をいつごろ迎えれば、天下統一ができるのか。色々と考えた結果、馬騰が曹操の元へ向かった208年頃へ加わえる事にします。
曹操と戦わずに益州へ
馬超は陸遜を配下に加えた事で戦略面を担当する頭脳を得ます。陸遜は馬超へ「まず曹操を倒すために彼と同盟を結び、益州を攻略する必要があります。益州を攻略した後、曹操と手を切って荊州の劉備と同盟し、益州・涼州の二州の兵を用いて曹操と戦えば、天下統一できるでしょう」このようなアドバイスをすると考えられます。
馬超は陸遜の提案を受け入れて、曹操と同盟した後益州を攻略。その後馬超は陸遜のアドバイス通り劉備と同盟し、益州と涼州の兵力を結集して、西から曹操軍を攻撃すれば、天下を取ることも不可能ではないと思います。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回はかなりレンの妄想を爆発させた内容になっております。もしも馬超の配下に陸遜が加わったとすれば、本当に天下統一をすることも不可能ではなかったでしょう。最後に潼関の戦いの時に陸遜が加わったパターンを紹介したいと思います。
陸遜が潼関の戦いの前に馬超軍へ加わっていれば、賈詡の離間の計を見破れ、馬超・韓遂連合軍の崩壊を防げたでしょう。曹操軍は賈詡の離間の計が陸遜によって見破られた場合、馬超軍と長期戦になった可能性があります。曹操軍と馬超軍が長期戦になれば、荊州の劉備や揚州の孫権も曹操軍の領土へ攻め込んでいたはずです。
曹操軍は涼州の馬超・荊州の劉備・揚州の孫権と三つの戦線を抱えることになり、戦線を維持するのは困難だと思われます。そして曹操軍がどれか一つの戦線で敗北すれば、中原にある曹操の領土が大幅に削られ、河北へ後退。
曹操の領土が河北へ後退した後は馬超・劉備・孫権・曹操の四国志になっていた可能性もあり、どの国が天下統一すできる中々面白い状況になったと思います。馬超が大好きなはじめての三国志の読者様。
この妄想ストーリどう思いますか。
▼こちらもどうぞ
馬超がかっこいい!入蜀後の功績が少ない理由は血筋の良さが五虎将軍随一だから?