馬岱(ばたい)と言えば、楊儀(ようぎ)とのコンビで魏延(ぎえん)の
「ワシを殺せるものはいるか?」に対する「ここにいるぞ!」プレイで
何年間もベストフュージョン賞を受賞している事で三国志マニアには有名ですが、
正史における記述はとても少ない人物です。
三国志演義では、名わき役の馬岱の実像とは、どんなものでしょうか?
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最初の記録は馬超の遺言から・・
西暦222年、馬超(ばちょう)は病を得て病死しますが、その遺言として
「私の一族は皆、曹操(そうそう)に殺されて残るのは、いとこの馬岱しかいません
私の死後は馬岱に馬氏の祭祀を継がせて下さい」
と劉備にお願いしていて、ここが馬岱の初登場になります。
それ以前の事は、馬超の一族である以外には何も分からないのです。
しかしながら優秀な人ではあったようで劉禅(りゅうぜん)の即位後には
平北将軍、陳倉候にまで昇進しています。
馬岱の見せ場の元ネタは地味ながら正史にもあった!
それが、魏延が楊儀と口論をし魏延が「この世にワシを殺せるものがいようか?」
と言った時に、魏延に寝返ったフリをしていた馬岱が、「ここにいるぞ!」
と飛び出して驚いた魏延を刺し殺すというあのシーンです。
実は、その元ネタはちゃんとあります、西暦234年、孔明が五丈原で没すると
楊儀は、孔明の遺言通りに軍を撤退させるとし魏延は戦争を継続させると言います。
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元から仲が悪かった楊儀と魏延
楊儀と魏延は、この時の撤退以前から非常に仲が悪い事で有名でした。
実力はあるが任侠の徒でプライドの高い魏延は、蜀の武将を見下しての
スタンドプレイが多く、蜀の武将はそれを嫌がっていましたが魏延が怖くて
何も言えませんでした。
その中で楊儀だけが魏延に反発して反対意見を述べていて、怒った魏延は、
刃を突きつけた事もありますが、楊儀は泣きながらも反論したと言います。
楊儀も人間の小さい所がありましたが、それでもスタンドプレイで
ヤクザのオッサンである魏延よりは遥かに人気があったようです。
孔明は二人の仲が悪い事を生前から悩みの種にしていましたが、
人材不足が深刻な蜀では代わりの将もいないので放置している間に、
このような結果になってしまいました。
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